2015年10月4日日曜日

住民の大量虐殺 「米軍の日本への『じゅうたん爆撃』」(閲覧注意)

<web上「読書会」 正村【3】>を投稿します。 
今回は、米軍の飛行機や艦艇による攻撃による国土の破壊、工場の焼失、住民の大量虐殺などに焦点を当てて、抜書きをしました。


米軍は、計画的に日本に対する空襲や艦砲を行い、多くの建物を破壊・焼失させました。同時に、住民の大量虐殺を行いました。もちろん、その代表例が、広島・長崎への原子爆弾による攻撃です。


◆ ここからは、<抜書き>です


≪第三は、アメリカ軍による日本本土九州などによる損害である。
マリアナ諸島と中国を基地とするアメリカ軍の日本本土空襲は1944年秋以後に本格化し、戦争の末期には艦載機による銃爆撃や艦砲射撃が加わった。敗戦までに全国206市のうち98市が破壊され、平均4割を焼失した。京浜、阪神、中京地区の焼失率は約6割といわれる。

本土空襲の主力であったB29爆撃隊は70%の力を一般的な都市爆撃に充当したといわれる。B29はしばしば大編隊を組んで来襲し、燃えやすい日本の都市に焼夷弾の雨を降らせて大火災を発生させ、計画的に大量の住民を殺した。最後には、広島・長崎に原爆を投下した。

こうした非戦闘員の大量殺戮をねらった爆撃の直接の目的は、本土上陸に先だって日本の潜在的な兵員動員力を減殺すること、軍需生産の労働力に打撃を与えることにあった。 

都市地域に散在する中小工場が軍需生産で重要な役割を担っていると見られ、それを破壊するためにも都市全体を焼き尽くす「じゅうたん爆撃」が必要であると考えられた。日本国民に心理的動揺を与えて降伏を早めるという目的からも無差別大量殺傷が正当化された。

B29爆撃機の30%の力は、特定の目標にしぼって攻撃する「精密爆撃」に充当された。主眼は航空機工場の徹底的破壊に置かれた。そのため航空機工場は確かに大きな被害を受けた。しかし、その他の工場にたいする爆撃の効果については評価がわかれている。

終戦直後の商工省の調査によると主要産業の生産能力は、1944年末のの力と比較して、1945年8月15日現在、鉄鋼62%、石炭76%、工作機械52%、自動車50%、アンモニア35%、セメント85%などと記録されている。この時期の能力低下の原因は大部分が空襲による被害であるが、工場が疎開中で未完成の場合その他の原因が目立つ業種もある。 


            ・・・・・・・・・・ 中略 ・・・・・・・・・





この調査によると、水力発電の空襲被害はゼロであったのにたいし、火力発電は約30%の被害を受けている。当時は「水主火従」の時代(1945年の全発電能力の70%は水力)であったから、水力設備が無傷で残ったことは復興のために有利な条件であった。しかし、敗戦直後には、石炭の供給不足のため残された火力設備も十分に稼働できず、電力不足が復興のボトルネックになった。・・・・


いずれにせよ、重工業の主要な部門な部門で終戦時になお70~80%の生産設備能力が残されていたという記録があるのは注目すべきであろう。軍需に関連した重工業では戦争の過程で設備の力が急増したから、戦争末期の破壊にもかかわらず、戦前との比較ではなおかなり高い設備能力が残された。これは戦後の重工業の出発点になった。


日本の降伏直後に来日して爆撃の効果を分析したアメリカの調査団は、航空機工場の目標以外にたいする「精密爆撃」は不十分なものだったと考えており、当時の主要な輸送手段であった鉄道が目標に選ばれなかったのも問題と述べている。爆撃した側が効果が不十分だと考えた空襲は爆撃された側にとっては復興のために好ましい条件を残すものだったといえよう。

しかし、主要都市とその住宅の焼失、多数の住民殺傷、工場の破壊、疎開のための設備の解体と移転などは、生産活動の低下を招いた。物的損害に対して、経済安定本部の戦争被害調査は、艦艇や航空機などの被害40億円にたいして、「平和的国富」の被害は653億円と推計している。「平和的国富」の被害率は25%であったとされている。


◆ 計画的な、確信的な、国土の破壊と大量殺人

航空機による爆撃は、計画的に行われ、もっとも、確実に日本人を殺す方法が取られました。

その典型的な例が、1945年3月10日の「東京空襲」です。この空襲による死者・行方不明者は、10万人といわれています。罹災者は、100万人です。

この空襲は、わざわざ、風の強い日を狙って行われました。そのほうが、家屋を効果的に焼き尽くすことが出来ると考えられたからです。

これは、まさに、計画的な、確信的な、大量殺人でした。

また、日本では、家内工業による軍需品の生産が行われているという理由づけを行って、日本の各地で多くの住宅を焼き尽くし、住民を殺しつくしました。

まさに、「ジェノサイド」にも等しいことが、行われたのでした。
このことを忘れてはならないと思います。

戦後に日本人が、二度と戦争をしないと誓い、戦争を放棄する憲法を創ったのは、この時の経験があったからだ、と私は思います。

たんにアメリカから「押し付けられたから」という理由だけではない、と考えます。

 次回は、少し時代をさかのぼって、連合国側の動きを検証します。
 ポツダム会談、ポツダム宣言について、見てみて行きます。


(2015年10月4日)

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