2015年10月3日土曜日

終戦直後の労働者「600万人が失業・半失業の状態」 

<web上「読書会」 正村【2】>を投稿します。
今回は、終戦による「失業問題」を取り上げました。

戦争が終わることで、日本の本土以外の場所から多くの兵隊や、一般の国民が帰国しました。これによって、日本は、多くの失業者を抱えることになります。

また、軍事工場で強制的に働かされていた人々も、仕事を失いました。
さらに、空襲によって、多く工場が焼かれたので、すぐに工場を稼動させることができませんでした。

正村氏は、戦争直後の日本の混乱期の「労働者の状態」を淡々と、描き出しています。


◆ 600万人が失業・半失業の状態

《 だが、日本の国内では終戦とともに軍需産業というかたちの就業機会が一挙に消滅していた。
「勤労動員によって戦争遂行上緊急運産業に従事していた」とされるものの状況を終戦直後に厚生省がまとめた師匠によると、「徴用工」として「新規」に軍需産業などに強制的に配置されていた労働者が161万人、軍需産業などに本来の従業員で「現員」のまま「徴用重陽」に指定されていたものが455万人、合計で616万人であった。

戦前の民需産業、流通業、サービス業などの就業者は、戦争経済と物資統制の強化のために仕事を失い、やむ終えず軍需産業に勤務するようになるか、または「徴用」の命令によって強制的に軍需産業に配置されるかしていた。「新規」も「現員」も「徴用工】に指定されれば自由な移動は許されなかった。

動員学徒(中等学校以上の生徒・学生が動員され、学業を中止して労働に従事させられた)や女子挺身隊員は240万人に達していた。徴用工・学徒動員・女子挺身隊は、なれない労働で事故も多く、軍需工場をねらいうちしたアメリカの軍の空襲の犠牲になった。そのほかに朝鮮人や中国人の「手段投入」(強制連行または捕虜」が35万とされている。

他の資料によると、終戦直前の1945年6月に、炭鉱労働者数39万6712人のうち、朝鮮人労働者12万4025人、白人捕虜9719人、中国人捕虜9077人、合計14万2821人(36・0%)であったとされる。そのほか、金属鉱山など、多くの労働条件の劣悪な厳しい職場に連行された人々が
配置されていた。

炭鉱地帯では、戦後、まず中国人労働者や朝鮮人労働者の待遇改善改善要求が起こり、炭鉱の生産に打撃を与え、同時に戦後の炭鉱労働運動に最初のきっかけを与えた。

軍隊から復員したものや徴用を解除されたものはそれぞれの家族のもとへ帰りもとの職場につこうとしたが、容易ではなかった。都市は焼け野原になり住居を得ることも困難であり、経済活動全体が縮小し、旧職への復帰が不可能な場合が多かった。いわゆるヤミ屋やあるいはカツギ屋の仕事でその場をしのぐものも少なくなかった。大工場の古い労働者も軍需の消滅とともに仕事がなくなり、解雇の脅威に直面した。

1945年12月16日、厚生省は、雇用状況を分析し、同年10月上旬までの「第一次復員」として、軍の復員(内地)396万人、工場の休止による離職413万人、合計809万人、そのほかに女子75万人が離職したとし、さらに、「第二次復員」として、軍の復員365万人、在外邦人150万人、合計515万人が帰国するものと予想している。「第一次」と「第二次」を合計すると1324万人(ほかに女子75万人)が新たに職を求めるものと考えられたのである。


厚生省は、この分析に中で、これらの人々について、前職復帰を促進し、また女子労働力の動員を解除して男子の復員者・離職者を優先的に就職させるなどの努力をしても、究極において600万人余の就業不能者が発生すると予想をし、各官庁や都道府県からの報告によれば、現在および近い将来において失業者数は400万人に達すると思われる、と述べている。

1946年4月26日に行われた人口調査によると、完全失業者(1カ月間、まったくしごとがなかったもの)は159万人、1カ月間に1週間しか仕事をしなかったものが196万人、8日以上19日まで働いたものは245万人であった。完全失業者またはそれに合計600万人が失業・半失業の状態に合ったことになる。当時の労働力人口は3000万人前後と考えられるから、完全失業またはそれに近い状態にあったものだけでも10%を超えており、不完全失業者を加えると20%に達していたと考えられる。》


◆ 文字通り、一からの出発であった

戦後の日本の出発点がここにあると思います。
それは、文字通り、一からの出発であった、といっても過言ではないと思います。

家を失い、家族を失い、仕事を失っても、「悲しむ間もなく」生きる算段をしなければなりませんでした。

次回は米軍の空襲による国土の破壊状況を見て生きたいと思います。


(2015年10月3日)

0 件のコメント: