2015年10月1日木曜日

マスコミ報道、「絶対的中立=不偏不党ではありえない」

<web上「読書会」 丸山 ”思想と行動” (4)>を、投稿します。
私たちの認識は、常に一定の偏向を伴った認識である、と丸山真男は言います。
そうであるなら、マスコミによる報道も、「絶対的中立=不偏不党」ではない、ということが言える、と思います。
 

ここに「抜書き」をした箇所で、丸山はとても重要なことを指摘しています。
それは、いわゆる「不偏不党」ということについてです。
結論からいっておきますと、彼は、「そのようなことは現実にはありえない」といっています。

◆ ここから、「抜書き」です。

≪私たちの社会というものは、私たちの無数の行動の網と申しますか、行動の組合せから成り立っております。社会がこうして私たちの行動関連から成り立つ限りにおいて、私たちは行動あるいは非行動を通じて他人に、つまり社会に責任を負っています。その意味では純粋に「見る」立場、ゲーテの言う意味での完全に良心な立場というものは、完全に無責任な立場という事になります。


したがってこの点でも神だけが、完全に無責任でありうるわけであります。認識することと決断することとの矛盾中に生きることが、私たち神でない人間の宿命であります。私たちが人間らしく生きることは、この宿命を積極的に引き受け、その結果に責任を取ることだと思います。この宿命を自覚する必要は行動関連が異常に複雑になった現代においていよいよ痛切になってきたのです。


世のなかには一方では、認識の過程の無限性に目をふさぎ、理論の仮説性を忘れる独断主義者もいれば、またそもそも認識の意味自体頭から軽蔑する肉体的行動主義者がいます。しかし他方その半面では、物事はそう簡単にはイエスかノウかきめられないのだ、もっとよく研究してからでなければ何ともいえないという名目のもとに、いつも決断を回避することが学者らしい態度だという考えがかなり強い。


あるいは対立する政治的争点に対して、あれももっとも、これももっとも、逆にそれを裏返しとして、あれもいけない、これもいけないということで、結局具体的な争点に対して明瞭な方向性を打ち出すことを避ける態度をもって、良識的であるとか、不偏不党であるとか考える評論家やジャーナリストかなりいるようであります。


たびたびゲーテの言葉を引いて恐縮ですが、ゲーテはこういうことをいっています。「自分は公正であることを約束できるけれども、不偏不党であるという事は約束できない。」今申しましたような世情いわゆる良識者は対立者に対してフェアであるということを、どっちつかずということことと混同しているのではないでしょうか。

      中略

私たちの認識は無からの認識ではありません。・・・・しかしその引き出しは必ずしも合理的反省され吟味されたものでなく、社会に蓄積されたいろいろのイメージがほとんど無自覚に私たちに内部に入り込んでいます。現実を直視せよなどとよくいわれますが、現実というものは、私たちが意識する否とと問わずイメージの厚いフィルターを通して整理され、既に選択された形で私たちの認識になるのであって、問題はそういう自分のフィルターを吟味するかどうかということだけです。


自分だけは「直接」に引き出しを使わないで物を見ている思っている人は往々、その社会に通用しているイメージに無反省に寄りかかっているにすぎない。そのうえ、私たちは行動関連の網に中にいるわけですから、私たちは対象を高空からいわば地図のように見ているのではなくて、あるいは観客席から舞台を見ているのではなくて、舞台で演技しながら、自分の立っている場所から遠近法的に観ている。


そういうところから私たちの認識は常に一定の偏向を伴った認識です。むしろ偏向を通じないでは一切の社会現象を認識できない。ここでも問題は変更をもつか、もたないかではなくて、自分の偏向をどこまで自覚して、それを理性的にコントロールするかということだけであります。


・・・・(西洋の研究者は、前もって、「自分の偏見」を明確にして論ずる。=投稿者)つまりそれは自分はこういう偏向を通じて、あるいは好みの選択を通じて物事を認識しているのだ。認識の結果や批判の仕方がそれに影響されているから、読者は注意してほしい、自分もそれを自覚しているからできるだけ客観性に到達しようと試みるということであります。


私はこれがむしろ社会現象に対する本当のフェアな態度ではないかと思うのであります。この点でもいわゆる「左右の偏向を排して公正の立場をとる」といった考え方が現実にはしばしばかえって自分の偏向を隠蔽し、あるいは社会席責任を回避する口実となることを注意しなければなりません。≫


◆ 「公正、中立」な認識が不可能であるから、そういう「報道をする」ことも「無理」

我々は、マスコミなど公共的な報道機関に対して、「左右の偏向を排して公正の立場をとる」事を要求することを当然のことと思い、法律もそれを要求しています。

しかし、丸山が説くように、「現実というものは、私たちが意識する否とと問わずイメージの厚いフィルターを通して整理され、既に選択された形で私たちの認識になる」訳ですから、情報を「泥水を濾過機にかけて”透明”にする」というようにはいかないと思います。

その点を新聞(ネットでもいいのですが)を例にとれば、こういえるのではないでしょうか。

私は、「産経」や「読売」は、―私の「物差し」からすると―、随分と「偏向した記事」を掲載していると感じています。しかし、だからといって、「産経」や「読売」に対し、そのような「態度を改めろ」という、要求をしようと思いません。

たしかに、「産経」や「読売」の記事をよむと、「けしからん」、「いい加減にしろ」と思うことが、多くあります。

でも、それは、私の「物差し=偏見」に基づいていることから、来るものです。私が持っている「物差し」自体の「公正中立」さを、一体、いかなる「物差し」ではかるのでしょうか。

そもそも、そのような「物差し」は、存在するのでしょうか。そう考えると、「産経」や「読売」の記事をいちがいには、否定できないのです。重要な事は、私の「物差し=偏見」も、「産経」や「読売」がもつ「物差し」も、どちらも「偏見から逃れられない」、という現実を、ハッキリと認識することである、と思います。

マスコミ各社が、「絶対的中立=不偏不党」な報道を行う、と考える事自体が、認識不足であり、「間違い」のもとである、と思います。

このことを心得たうえで、記事を読めば、「害は少ない」し、むしろ、「有用」でさえあることでしょう。そう思うのです。

※ 今回で、丸山真男著『現代政治の思想と行動』からの「抜書き」は、いったん、終了します。今回の「抜書き」は、この本の後半分を中心に行いました。

この本の10分の1すらも、「抜書き」を終えていないのですが、他の箇所については、ほとんど目を通していません。また、仮に通したとしても、戦前や戦後の歴史的な出来事について、ある程度の知識がないと、理解が難しいと感じています。

もう少し、それらのことについて、補強を行った上で、また、「お会いしたい」と思っています。

尚、次回からは、正村公宏著『戦後史』をお届けする予定にしています。

(2015年10月1日)

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