<web上「読書会」 正村(6)>を投稿します。
「終戦」後、講和条約が成立する前後の政党の状況(再編成)について、見てみます。
この時代にも、政党による、国民不在の離散集合が繰り返されたようです。
最初に紹介したように、この本は、上下二巻に分かれています。
上巻では、主に労働運動、経済的なことを扱い、下巻では政治的なことを取り扱っています。
それは、正村氏が意図的にそうしたのではなく、歴史の流れがそのようなものであったからだと、私は考えます。
米軍の空襲により日本全国の主要都市は、破壊し尽くされていた。生産もストップしていた。何よりもまず、住む家を必要とした。腹を満たす食料を必要とした。まず、「食べていけること」が、肝心なのでした。
それに、占領が終わるまでは、GHQが日本を支配していたのであり、「政治」はー実質的にはー、出る幕がなかった。
これまでに、戦後直後の状況を紹介してきたが、今回からは、途中を飛ばして、下巻の内容を紹介していきたい。
主な内容は、55年体制、いわゆる保守合同。
日米安保の改定。
冷戦とベトナム戦争。
沖縄返還。
日中国交回復と田中内閣。
これらを中心に、観ていきます。
◆ 吉田、鳩山の対立
平和条約の成立により独立が達成されると、戦後政治の再編成が進行し始めた。ドッジ・ラインの実施からサンフランシスコ体制確立の至る時期に政権を担当した吉田内閣は、保守勢力内部の反対勢力の挑戦に出会い、退陣を余儀なくされた。
事実上は強力な専制政府であったGHQの支持とともにその基盤が弱まった。直接には、占領終結にともなって実現された政治家たちの公職追放解除が吉田体制崩壊の契機となった。
いわゆる「ばかやろう」解散総選挙の後の1953年5月に第5次吉田内閣が成立したが、それは少数与党であった。
実は、芦田内閣崩壊のあとを受けた1948年10月の第2次吉田内閣の民主自由党も少数与党であった。しかし、吉田の民主自由党は翌1949年1月の総選挙で圧勝して269議席(総議席数の57・7%)を獲得した。
しかも同年2月に成立した第三次吉田内閣は民主党から二人を入閣させて保守連立体制をとった。こととき民主党は連立派・野党派の両派に分裂した。昭電事件で芦田均が逮捕されたあとに就任した総裁犬養健や幹事長の堀茂などは連立派、芦田や若手の中曽根康弘、岡田直、稲葉修などは野党派だった。
1950年3月、民主自由党は民主党連立派を吸収して自由党と名のった。同年4月、民主党野党派は国民協同党と合同して国民民主党を結成した(総裁苫米地義三)衆議院の議席は、自由党286、国民民主党67、社会党46となった。
吉田内閣は、このような自由党の安定多数を基礎に占領時代後期から講和成立初期の政権を担当した。吉田内閣は、ドッチ・ライン、共産党の規制、産業合理化政策、再軍備、平和条約と安保条約の調印と批准、破防法の制定などを推進した。
1951年10月、社会党が講和条約賛否で分裂したが、1952年秋と1953年春の総選挙では総評の支援する左社が躍進した。
平和条約の発効後に多数の政治家が公職追放解除になった。旧立憲民政党の大麻唯男(東条内閣国防相)、松村健三、堤康次郎などは1951年に新政クラブを組織した。1952年2月、国民民主党はこの新政クラブと農民共同党を吸収して改進党を結成した(総裁重光葵)
旧政友会系の鳩山一郎、河野一郎、旧民政党だが鳩山擁立に動いた三木武吉、第一次吉田内閣蔵相で後に追放になった石橋湛山などは、追放解除後、自由党に所属した。
A級戦犯で逮捕されたが不起訴になった岸信介(東条内閣商工相)は、追放解除後、戦前の同志と日本再建連盟を結成した。同連盟は1952年10月の総選挙で惨敗した。実弟の佐藤栄作は岸を自由党に入党させた(1953年3月)。
鳩山は組閣を目前にした1946年5月に公職追放され、後を吉田に譲ったという経過があった。そこで鳩山は、追放解除後、政権の譲渡を吉田に要求したが拒否された。
1952年8月28日の「抜き打ち解散」は追放解除組を中心とする自由党内反吉田派の体制の整うまえに総選挙を遂行するためのものだった。しかし、10月1日の総選挙、10月30日の第四次吉田内閣成立後も吉田体制は不安定を避けられなかった。
11月27日、通産相池田隼人は、衆議院での加藤勘十(右者)の質問に答えるなかで、「5人や10人の中小企業が倒産し、自殺するのはやむをえない」と発言した。翌日、改進党、左右社会党、労農党などの野党が共同で提出した池田通産相不信任案は、自由党内反吉田派の欠席戦術により208票で可決・成立し、池田は辞職した。
さらに、1953年2月末の首相の「ばかやろう」発言から3月14日の内閣不信任案成立に至る過程でも自由党内反吉田派の動きが活発化した。3月18日、鳩山らは分党し、4月19日の総選挙で吉田自由党は199議席に落ちた。
総選挙後、吉田自由党と改進党との連立の動きもあったが、改進党の三木武夫らの野党は重光首班を主張し、左右社会党にも働きかけた。5月19日の首班指名では、吉田、重光、鈴木重三郎(左社)、川上丈太郎(右社)に票が割れ、結局、決選投票で吉田が指名された。
こうして第5次吉田内閣が少数与党で発足したが、保守勢力は基本的施策では共通認識を持ち、重要法案の審議では協力した。スト規制法の成立はこの年の8月であった。
◆ いつの時代にも、国民不在の離散集合が繰り返されていた
このようにみてくると、この時代にも、政党の離散集合が頻繁に行われた事が解ります。今日の状況は、決して、めずらしいことではなかった、ということでしょう。
それにしても、吉田茂の政権が、これほど頻繁に変わり、それにもかかわらず、総理の座を続けられたことは、驚異的なことです。
やはり、ここには、「米国の思惑」があったと見なければならないような気がします。「米国の支援」があった。それが真相ではないでしょうか。
米国は何としても、米国に都合のいい施策を実施してくれる吉田を首相にしておく必要があった。こういうことではないでしょうか。
それは、今日の安倍首相にも、共通することであるように思えてなりません。米国にとって、安倍首相が「都合のいい」政府であってくれる限りにおいては、米国は安倍首相を「支援」し続けていくでしょう。
しかし、米国の議会演説で約束したことを果たした安倍首相。「意気揚々」と米国に出かけていきましたが、オバマ大統領とは会えませんでした。
オバマ大統領が特別に忙しかった、という訳でもなさそうな所を観ると、やはり「安倍首相を避けた」と考えるしかありません。(ほかの国の首脳とは、会談をもっていますから)
このあたりのことは、「微妙」な感じがします。今の安倍首相は、オバマ政権にとって「都合がいいが、危険」という認識がある、のかもしれません。
82015年10月7日)
「終戦」後、講和条約が成立する前後の政党の状況(再編成)について、見てみます。
この時代にも、政党による、国民不在の離散集合が繰り返されたようです。
最初に紹介したように、この本は、上下二巻に分かれています。
上巻では、主に労働運動、経済的なことを扱い、下巻では政治的なことを取り扱っています。
それは、正村氏が意図的にそうしたのではなく、歴史の流れがそのようなものであったからだと、私は考えます。
米軍の空襲により日本全国の主要都市は、破壊し尽くされていた。生産もストップしていた。何よりもまず、住む家を必要とした。腹を満たす食料を必要とした。まず、「食べていけること」が、肝心なのでした。
それに、占領が終わるまでは、GHQが日本を支配していたのであり、「政治」はー実質的にはー、出る幕がなかった。
これまでに、戦後直後の状況を紹介してきたが、今回からは、途中を飛ばして、下巻の内容を紹介していきたい。
主な内容は、55年体制、いわゆる保守合同。
日米安保の改定。
冷戦とベトナム戦争。
沖縄返還。
日中国交回復と田中内閣。
これらを中心に、観ていきます。
◆ 吉田、鳩山の対立
吉田(左)と鳩山 |
事実上は強力な専制政府であったGHQの支持とともにその基盤が弱まった。直接には、占領終結にともなって実現された政治家たちの公職追放解除が吉田体制崩壊の契機となった。
いわゆる「ばかやろう」解散総選挙の後の1953年5月に第5次吉田内閣が成立したが、それは少数与党であった。
実は、芦田内閣崩壊のあとを受けた1948年10月の第2次吉田内閣の民主自由党も少数与党であった。しかし、吉田の民主自由党は翌1949年1月の総選挙で圧勝して269議席(総議席数の57・7%)を獲得した。
しかも同年2月に成立した第三次吉田内閣は民主党から二人を入閣させて保守連立体制をとった。こととき民主党は連立派・野党派の両派に分裂した。昭電事件で芦田均が逮捕されたあとに就任した総裁犬養健や幹事長の堀茂などは連立派、芦田や若手の中曽根康弘、岡田直、稲葉修などは野党派だった。
1950年3月、民主自由党は民主党連立派を吸収して自由党と名のった。同年4月、民主党野党派は国民協同党と合同して国民民主党を結成した(総裁苫米地義三)衆議院の議席は、自由党286、国民民主党67、社会党46となった。
吉田内閣は、このような自由党の安定多数を基礎に占領時代後期から講和成立初期の政権を担当した。吉田内閣は、ドッチ・ライン、共産党の規制、産業合理化政策、再軍備、平和条約と安保条約の調印と批准、破防法の制定などを推進した。
1951年10月、社会党が講和条約賛否で分裂したが、1952年秋と1953年春の総選挙では総評の支援する左社が躍進した。
平和条約の発効後に多数の政治家が公職追放解除になった。旧立憲民政党の大麻唯男(東条内閣国防相)、松村健三、堤康次郎などは1951年に新政クラブを組織した。1952年2月、国民民主党はこの新政クラブと農民共同党を吸収して改進党を結成した(総裁重光葵)
旧政友会系の鳩山一郎、河野一郎、旧民政党だが鳩山擁立に動いた三木武吉、第一次吉田内閣蔵相で後に追放になった石橋湛山などは、追放解除後、自由党に所属した。
A級戦犯で逮捕されたが不起訴になった岸信介(東条内閣商工相)は、追放解除後、戦前の同志と日本再建連盟を結成した。同連盟は1952年10月の総選挙で惨敗した。実弟の佐藤栄作は岸を自由党に入党させた(1953年3月)。
鳩山は組閣を目前にした1946年5月に公職追放され、後を吉田に譲ったという経過があった。そこで鳩山は、追放解除後、政権の譲渡を吉田に要求したが拒否された。
1952年8月28日の「抜き打ち解散」は追放解除組を中心とする自由党内反吉田派の体制の整うまえに総選挙を遂行するためのものだった。しかし、10月1日の総選挙、10月30日の第四次吉田内閣成立後も吉田体制は不安定を避けられなかった。
11月27日、通産相池田隼人は、衆議院での加藤勘十(右者)の質問に答えるなかで、「5人や10人の中小企業が倒産し、自殺するのはやむをえない」と発言した。翌日、改進党、左右社会党、労農党などの野党が共同で提出した池田通産相不信任案は、自由党内反吉田派の欠席戦術により208票で可決・成立し、池田は辞職した。
さらに、1953年2月末の首相の「ばかやろう」発言から3月14日の内閣不信任案成立に至る過程でも自由党内反吉田派の動きが活発化した。3月18日、鳩山らは分党し、4月19日の総選挙で吉田自由党は199議席に落ちた。
総選挙後、吉田自由党と改進党との連立の動きもあったが、改進党の三木武夫らの野党は重光首班を主張し、左右社会党にも働きかけた。5月19日の首班指名では、吉田、重光、鈴木重三郎(左社)、川上丈太郎(右社)に票が割れ、結局、決選投票で吉田が指名された。
こうして第5次吉田内閣が少数与党で発足したが、保守勢力は基本的施策では共通認識を持ち、重要法案の審議では協力した。スト規制法の成立はこの年の8月であった。
◆ いつの時代にも、国民不在の離散集合が繰り返されていた
このようにみてくると、この時代にも、政党の離散集合が頻繁に行われた事が解ります。今日の状況は、決して、めずらしいことではなかった、ということでしょう。
それにしても、吉田茂の政権が、これほど頻繁に変わり、それにもかかわらず、総理の座を続けられたことは、驚異的なことです。
やはり、ここには、「米国の思惑」があったと見なければならないような気がします。「米国の支援」があった。それが真相ではないでしょうか。
米国は何としても、米国に都合のいい施策を実施してくれる吉田を首相にしておく必要があった。こういうことではないでしょうか。
それは、今日の安倍首相にも、共通することであるように思えてなりません。米国にとって、安倍首相が「都合のいい」政府であってくれる限りにおいては、米国は安倍首相を「支援」し続けていくでしょう。
しかし、米国の議会演説で約束したことを果たした安倍首相。「意気揚々」と米国に出かけていきましたが、オバマ大統領とは会えませんでした。
オバマ大統領が特別に忙しかった、という訳でもなさそうな所を観ると、やはり「安倍首相を避けた」と考えるしかありません。(ほかの国の首脳とは、会談をもっていますから)
このあたりのことは、「微妙」な感じがします。今の安倍首相は、オバマ政権にとって「都合がいいが、危険」という認識がある、のかもしれません。
82015年10月7日)
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