2015年10月7日水曜日

 アイドルの「恋愛禁止」条項に正当性はあるか


アイドル「恋愛禁止」裁判(中)。
アイドルに「恋愛の自由」は許されないことか。
アイドルの「恋愛禁止」条項に正当性はあるのか。
これらのことについて、思うところを述べてみたい。前もって、注意して頂ただきたい点について述べておく。


これはあくまでも、私の「仮説」であって、学問的な「論争」を行おうとするものではない、ということである。

今回の裁判に対して弁護士の観方では、アイドルの「恋愛禁止」を認める見解が多いようだ。従って、裁判所の判断をおおむね、妥当なものである、という考えだ。

判決をここで確認しておきたい。
≪判決によると、女性は2013年3月に会社と契約を結び、交際禁止を定めた規約を受け取り、6人グループで7月にデビュー。ライブやグッズ販売をしていたが、女性が男性ファンに誘われ2人でホテルに行ったことが発覚し、グループは10月に解散した。≫

◆ 人たるに値する生活」と「恋愛禁止」

さて、裁判所の判断が適当であるという見解(弁護士)。これは、民法の規定から導き出したものである、と思う。だが、今回のことは、労働基準法も関係する。

労働基準法の第1条は、「労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない」と規定する。

これは、たんに、労働条件を設ける際、賃金や労働時間などに物的な面のみを考慮すれば、「それでいい」、というものではないと考えられる。

「人たるに値する生活」を保障することが出来るものになっていなければならない。そう解釈できる、と思う。

もし、そうであるとすれば、「恋愛禁止」の項目を入れて、少女(アイドル)を一日中、このような契約で縛るようなことが適法であるとは思えない。当然である、とは思えない。

それではまるで、少女(アイドル)を犬か、猫のように「物」として扱っているのと、変わらない。とても、人間に対する扱いであるとは思えない。

ところで、人が、人を「愛する」ことは、自然の感情である。人を愛することは、人として当然に与えられた権利である。たとえ、アイドルと言えども、人である。

人であれば、人に惹かれるのは、当然だ。それを、そういうことをするのは、たとえ時間外であっても許さない、と勝手に決めることは、労働基準法のいう人たるに値する生活」を侵害するものである。


◆ 私的なものと、公的なものとの区別

ネットでは、様々な書き込みがある。

アイドルを擁護するものもあるが、「心ない」書き込みが多いい。それらは、すべてアイドルと自分を自己同一化した結果、アイドルの私的な領域に踏み込むものだ。

小女の自由や人権を認めようとしない「自分勝手」な思い込みによるものである。アイドルの「崇拝者」らは、自分勝手にアイドルに自分を重ね、アイドルを「人として」見ようとしない。

アイドルは、トイレにも、風呂にも入らないと思っている。まるで、天使か、幽霊のように考えている。

自分をアイドルに重ねあわせること自体は、自由かもしれない。
だが、だからといって、自分に許されていることを、アイドルに許さないというのは、やはり自分勝手にすぎる。

わがままに、すぎる。ここには「他人への多いやり」も、「愛」も感じることが出来ない。分別のない「赤ん坊」のすることと同じである。


これは詰まるところ、私的なものと、公的なものとの区別がつかないということである。公的な事柄の中に、私的な事柄を持ち込むから、このような事になる。

恋愛は個人の内面に関することであり、まったく私的な事だ。たとえ、アイドルと言えども、公的な「権利」で縛ることは許されない。

このような「恋愛禁止」などという「前近代的な」ことが、普段におこなわれ、裁判所がそれを何の疑いもなく、認める。とても、近代国家で許されることではない。

ここに、この「事件」の本質がある、と思う。


◆ 「自分以外の人間を愛せなくなる」危険

これはたんに、恋愛が「どうのこうの」ということではない。人権に関することである。公的な機関が踏み込むことが許されない、私的な領域に関することだ。

本来、契約は対等である。そうであるのに、働く側(アイドル)の弱みにつけ込んで、「恋愛禁止」というような項目を押しつけるのは、労働基準法に違反しており、違法契約である。

もっとも、裁判所がこのような判決を出すのは、今の安倍政権の姿勢を反映しているとも、考えられる。今の安倍政権は、経営者側に立っており、労働者の権利を著しく制限しようとしている。


もちろん、少女の側にも、「問題」があることは否定できない。アイドルになることは、自分を自分でない「何ものか」にすることである。自分の個性を「消し去る」ことである。

しかも、いったんアイドルとして騒がれるようになれば、「アイドルの危険」に見舞われることになる。「ナルシス」のようになり、「自分以外の人間を愛せなくなる」。

そうなると、「崇拝者」のことなど、目に入らなくなってしまうことだろう。「崇拝者」が、自分を崇めて当然と思うようになるだろう。そして、それは、事務所に対しても、同じように思うようになるだろう。

「自分以外」は、眼中にない、という事態に陥る危険性がある。アイドルになるということは、その危険を引き受けることである。この覚悟が十分にできていたのかどうか。


それにしても、こういうことで「裁判沙汰になる」ということは、日本の社会を象徴するものだ。日本が、まだ、近代国家にふさわしいものにはなっていない。それを証明するものである。

私は、そう思う。

(関連記事案内)
弁護士が語る「アイドル恋愛禁止論=相談ライン
遂に裁判沙汰「アイドル恋愛禁止令」 指原「やめません?」提案=JCAST
アイドルの恋愛禁止は人権侵害?各界で波紋=NAVER
少女の人権を無視・アイドル交際禁止違反で賠償・・・・=ヤフー

※ ここの書いたことは、経営者側からの視点については、捨象(切り捨てている)している。そんなことをしていたら、「経営が成り立たない」、という主張があっても、別におかしくはない。

ただ、そういうことを想定の上で行う(経営)のが、経営者としての「責任」ではないかと思う。そうでなければ、「年若い少女を食い物にしている」という批判を受けることになろう。

次回は、立ち位置をもっと遠くにとって、世界を見回して、「アイドル現象」がないか、検討してみたい。

(2015年10月7日)