土屋正忠議員 |
これを言論の自由の侵害である、と言わずして、なんと言う。
1) [ 東京新聞 ] が報じた記事より__
自民党の土屋正忠議員が、自身のブログで「平和を維持するための政治的選択について語りたいなら、長崎市長を辞職して国政に出ることだ」と批判していた。
「長崎市の田上富久(たうえとみひさ)市長が9日の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で読み上げた平和宣言で、集団的自衛権の行使容認に対する被爆者らの懸念に言及したことについて、自民党の土屋正忠(つちやまさただ)衆院議員=東京18区、2期、写真=が自身のブログで「平和を維持するための政治的選択について語りたいなら、長崎市長を辞職して国政に出ることだ」と批判していたことが分かった。…』(東京新聞 8/11)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014081102000048.html
これはゆゆしきことである。
ツイッタ―などでは、当然の指摘だ、という議論もあるが、私はそうは思わない。看過するわけにはいかない。
2) 土屋正忠議員のブログ記事の全文
『広島、長崎の悲惨な原爆体験から、大勢の住民を無差別に殺害し負傷者も永らく後遺症に悩まされる核爆弾の悲劇を繰り返してはならないことは全国民の共通の願いであり、核廃絶は人類の目標である。
被爆地長崎市の市長が核廃絶を主張することは重大な使命である。
一方、世界中で紛争や軍事衝突が続き、平和を維持することの難しさを物語っている。
現に、日本の隣国にも核武装して「東京を火の海に」「アメリカにも核ミサイルの報復を」などと主張する北朝鮮のような国家も存在する。
同じ今日、アメリカはイラク国内の過激派「イスラム国」基地を空爆した。
核の悲劇を繰り返さないためにも、現実に立って抑止力を有効に組み立てることが政治の責任もった選択なのである。集団的自衛権も現実政治の選択肢の一つなのだ。
長崎市長は歴史的体験を踏まえた核廃絶について語るから権威があるのだ。集団的自衛権云々という具体的政治課題に言及すれば権威が下がる。
核廃絶の祈りではなく、平和を維持するための政治的選択について語りたいなら長崎市長を辞職して国政に出ることだ。』
http://blog.livedoor.jp/shugiin08846/archives/52086458.html
以上が、その全文である。
3) 市長は、国政について語ってはいけない?そんなことはない
最も、重要な所は、「平和を維持するための政治的選択について語りたいなら長崎市長を辞職して国政に出ることだ」というところである。
だが、果たして、そうであろうか。
市長は、国政について語ってはいけないのであろうか。
ツイッタ―などでは、「語ることは間違いである」、という人々が、結構いる。
そんなことはない。
何故なら、市長は、特別職の地方公務員である。
だから、憲法を守るべき義務がある。
日本国憲法は、その第99条で「・・・裁判官、その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と、特に規定している。
だから、__地方公務員である__長崎市長は、国政を語る資格があるし、憲法を守るべき立場にある。国家公務員だけに、憲法を守る義務があるのではない。
そして、もし、__憲法を守ることをせず__この憲法に違反するような事があれば、処罰される。
4) 土屋議員は 大きな誤解がある。
土屋議員はここにおいて、すでに間違っている。
国政を語るのに、国会議員である必要はないのである。
それは、先日も、証明されている。
舛添都知事の韓国訪問である。
単に、友好都市同志の交流であるなら、韓国の大統領と会う必要はなかった。
日韓親善のための外交をする必要はなかった。
会談の際の、舛添都知事への、韓国の大統領に対する__「態度が卑屈であった」という__批判はあるが、会談そのものへの批判はない。
土屋議員には、日本国憲法を守る義務がある。
憲法に違反することは、許されない。
現在の日本においては、個人が、__市長であっても、なくても__どのような見解を持ち、どのように発表するかは、国民に権利として、保障されている。
その国民の権利を保障し、守るべき立場にある国会議員が、このような発言をすることは、明白に、日本国憲法に違反している行為である。
我々、国民には、ついや土屋議員をやめさせる権利は与えられてはいないが、__その権力を与えられている__国会は、すぐに動くべきだ。
土屋議員は、自分自身が、「市長から国会議員になった」ので、長崎市長にもそうすべきだ。それから、語るべきであると思っているようだ。ここに、大きな誤解がある。それが、土屋議員には、分っているのだろうか。