『高校野球の指導者による現場での体罰が刑事事件に発展するのは、極めて異例。31日、部員にあばら骨骨折のけがなどをさせたとして愛知・豊田大谷監督の川上貴史容疑者(33)が愛知県警に傷害容疑で逮捕された事件を受け、日本高校野球連盟の竹中雅彦事務局長は「県高野連からの報告を待って厳正に対処したい」と慎重な姿勢を示した。
高校の部活動を巡っては、2012年12月に大阪・桜宮でバスケットボール部の2年生男子部員(当時17歳)が顧問に体罰を振るわれ、自殺した。顧問は傷害容疑などで書類送検され、懲役1年、執行猶予3年の有罪判決が確定した。
日本高野連はこの問題を受け、13年2月に指導者による体罰や部内暴力の根絶を求める通達を全国の加盟校に出している。だが今回、逮捕容疑となった事案が発生したのは同年7月。それだけに竹中事務局長は「事実ならショックで悲しい」と述べた。』(毎日新聞 8/1)
http://koshien.mainichi.jp/news/20140801ddm035040160000c.html
2) 「同じこと」が、何度も繰り返されるのは、何故か
我々は、何度同じ言葉を聞かされればいいのであろうか。もう、聞き飽きるぐらい、聞いてきた。それでも、まだ、変わらない。
「このような不祥事が起きたことを残念に思います」
「悲しい出来事です」
「このようなことが二度と起きないように指導を徹底したい」
このような言葉にもかかわらず、「同じこと」が、何度も繰り返される。まったく、不思議だ。これは、やはり、「反省の言葉」が、反省ではなかった。単に、その場しのぎの言い逃れであった。そう、考えるしか、理解のしようがない。
3) 心からの反省が足りなかったのではないか。あるいは・・・
この記事が書くように、大阪の桜宮に事件があってから、まだ、何年も経ってはいないのである。あの時、指導者、学校側、教育委員会、保護者などが、反省の言葉、誓いの言葉を述べた。
もう、忘れてしまった、のであろうか。
とてもそうとは、思えない。
やはり、心からの反省が足りなかったのだ。
いや、もしかしたら、反省さえ、本当は、してはいなかったのかもしれない。世間の手前、反省した「フリ」をしていただけなのかもしれない。そうでないと、このような傷害事件が起こるはずがない。
それは、竹中事務局長の「事実ならショックで悲しい」と言う言葉に表れている。そんな、心の問題ではない。「悲しんでいる」場合でもない、はずだ。
何故、即座に、「厳正に対処したい」という言葉が出てはこない。この辺りに、問題の本質がありそうだ。そんな気がする。
4) YOMIURI ONLINE が詳しく報じた。
毎日の記事は、「現場での体罰が刑事事件に発展するのは、極めて異例」と書いているが、これまでの対応が異例であったのだ。そして、そのことが、現場の指導者のこころの「緩み」を招く結果になったのではないか、と思う。
それは、学校の対応にも表れている。この記事は伝えていないが、学校は、_この件に対する調査において_この逮捕された指導者の話のみを聞いて、「体罰」がないと判断をした。
読売新聞が、この事に関して、詳しく報じている。その記事は、以下のように言う。
5) 紛れもなく、暴力事件である。「体罰」の限界を超えている
ここにも、問題の本質が示されている。
http://koshien.mainichi.jp/news/20140801ddm035040160000c.html
2) 「同じこと」が、何度も繰り返されるのは、何故か
我々は、何度同じ言葉を聞かされればいいのであろうか。もう、聞き飽きるぐらい、聞いてきた。それでも、まだ、変わらない。
「このような不祥事が起きたことを残念に思います」
「悲しい出来事です」
「このようなことが二度と起きないように指導を徹底したい」
このような言葉にもかかわらず、「同じこと」が、何度も繰り返される。まったく、不思議だ。これは、やはり、「反省の言葉」が、反省ではなかった。単に、その場しのぎの言い逃れであった。そう、考えるしか、理解のしようがない。
3) 心からの反省が足りなかったのではないか。あるいは・・・
この記事が書くように、大阪の桜宮に事件があってから、まだ、何年も経ってはいないのである。あの時、指導者、学校側、教育委員会、保護者などが、反省の言葉、誓いの言葉を述べた。
もう、忘れてしまった、のであろうか。
とてもそうとは、思えない。
やはり、心からの反省が足りなかったのだ。
いや、もしかしたら、反省さえ、本当は、してはいなかったのかもしれない。世間の手前、反省した「フリ」をしていただけなのかもしれない。そうでないと、このような傷害事件が起こるはずがない。
それは、竹中事務局長の「事実ならショックで悲しい」と言う言葉に表れている。そんな、心の問題ではない。「悲しんでいる」場合でもない、はずだ。
何故、即座に、「厳正に対処したい」という言葉が出てはこない。この辺りに、問題の本質がありそうだ。そんな気がする。
4) YOMIURI ONLINE が詳しく報じた。
毎日の記事は、「現場での体罰が刑事事件に発展するのは、極めて異例」と書いているが、これまでの対応が異例であったのだ。そして、そのことが、現場の指導者のこころの「緩み」を招く結果になったのではないか、と思う。
それは、学校の対応にも表れている。この記事は伝えていないが、学校は、_この件に対する調査において_この逮捕された指導者の話のみを聞いて、「体罰」がないと判断をした。
読売新聞が、この事に関して、詳しく報じている。その記事は、以下のように言う。
『・・8月上旬に受診して。12月に退部し、今年3月5日に保護者と県警豊田署を訪れ、被害届を提出した。生徒は別の通信制高校に転校した。・・・
骨折が判明したことなどについて、『学校側は「そんな事実はない。生徒は7月から9月末までに10回、試合に出場している」と説明したという。・・・
「監督や他の部員から聞き取り調査をして、暴力はなかったと判断していた」と釈明した。同校は野球部員を自宅待機とし、体罰について生徒を対象とした無記名アンケートの実施を検討している。・・・』(YOMIURI ONLINE 8/1)
① 体罰を目にしながらも、監督をかばう部員。
② 部活の監督が教師でないこと。
② 部活の監督が教師でないこと。
③ 体罰をしながら、それを認めようとしない監督の姿勢。
④ いい加減な調査で、「物事を納めよう」とする学校側の態度。
⑤ 悠長な警察の捜査。
特に、①と②が重要だ。部活は、本来、学校教育の一環として行われていることである。それを、教師でない者が指導する事自体、問題がある。本来は、許されないことのはずだ。そして、このような事は、高校野球にかぎられていることでもある、のではないか。
ここに、高校野球の持つ特殊性がある、と思われる。この事についても、もうそろそろ、見直すべき時期に来ていると思われる。というより、部活そのもののあり方を、全面的に見直すべき時期ではないか。
(*少し、考えを述べておけば、もう、学校で部活は止めるべきではないか。正規の体育の授業だけに限るべきではないか。そう思う。)
そうしないと、いつまでもたっても、「体罰」がなくならない。学校現場から、暴力がなくならない。「指導者」の資質の問題に「すり替える」と、いつまでもこういうことは、なくならない。ここでは、あえて、暴力と書いた。これは、紛れもなく、暴力事件である。「体罰」の限界を超えている。
ここに、高校野球の持つ特殊性がある、と思われる。この事についても、もうそろそろ、見直すべき時期に来ていると思われる。というより、部活そのもののあり方を、全面的に見直すべき時期ではないか。
(*少し、考えを述べておけば、もう、学校で部活は止めるべきではないか。正規の体育の授業だけに限るべきではないか。そう思う。)
そうしないと、いつまでもたっても、「体罰」がなくならない。学校現場から、暴力がなくならない。「指導者」の資質の問題に「すり替える」と、いつまでもこういうことは、なくならない。ここでは、あえて、暴力と書いた。これは、紛れもなく、暴力事件である。「体罰」の限界を超えている。
だから、とにかく、学校現場が、これを「体罰」ではなく、暴力である、と認めることから、出発する事が、必要だ。
(検討すべき問題は、多い。だが、この辺で止める。今、「教育についてのシリーズ」を始めている。そこで、改めて検討したい。)
(2014/8/1)