<正村 戦後史(44)>
1950年6月25日午前4時、北朝鮮は韓国に対する全面的攻撃を開始します。「朝鮮戦争」の始まりです。しかもそれは奇襲攻撃でした。
戦力は、圧倒的に北が、優勢でした。とくに、戦闘機、爆撃機、戦車については、南は「ないも同然」の状態でした。
★ 「北の奇襲作戦」
≪1950年6月25日午前4時、北朝鮮は韓国に対する全面的攻撃を開始した。30分間の一斉砲撃の後ソ連製T34型戦車を先頭に5方面で38度線を超えた。
攻撃開始に先だって北朝鮮の外交攻勢があった。6月7日以後、ピョンヤン(平嬢)放送は南北平和統一提案を繰り返し、韓国滞在中の国連臨時朝鮮委員会と南朝鮮の政党指導者に統一方式案を手交したいと述べた。
国連委員会は提案に応じ、6月10日、開城付近の38度線で北朝鮮代表と会って文書を受け取った。北の代表は南の政党指導者に会うと称して38度線を越え、韓国警察に逮捕された。ピョンヤン放送はその釈放を激しく要求した。
・約2年半前の1947年11月、国連総会でアメリカは以下の提案を行った。
(1) まず国連臨時朝鮮委員会を設置する。
(2) 1948年3月末までにこの国連臨時朝鮮委員会の監視のもとに全朝鮮の成年者による秘密投票制の総選挙を実施する。
(3) 右の総選挙で南北いずれの投票区からも人口に比例した代表を選出して朝鮮中央政府を組織し、南北に駐在する米ソ両軍から行政の移譲を受ける。
・ソ連はじめ共産圏代表は棄権し、提案は賛成43、反対0、棄権6の圧倒的多数で可決され、オーストラリア、カナダ、インド、フィリピン、エルサルバドル、シリア、フランス、中華民国の8か国代表のよる臨時朝鮮委員会が構成された。しかし、ソ連軍占領下の北朝鮮は国連臨時朝鮮委員会の立ち入りを拒否した。
1948年5月10日、国連はやむをえず南だけで第1回総選挙を実施した。南の共産主義者たちは総選挙に反対し、済州島などの各地で反乱を組織した。
南北協議優先を唱える「協商派」の政治家も立候補せず、選挙では李承晩らの保守派が圧倒的勝利を収めた。8月13日、大韓民国独立が宣言され、アメリカの軍政は終了した。国連は韓国政府を唯一の朝鮮正統政府とみなした。
・北朝鮮では、同年8月25日に「総選挙」が実施され、9月9日に朝鮮民主主義人民共和国樹立が宣言された。「民主主義」がうたわれたが事実上は共産党(朝鮮労働党)の独裁であり、政治的・思想的自由は革命主義の立場から否定された。
・1950年6月16日、北朝鮮への回答として李承晩大統領がラジオで国連監視下の秘密投票と人口比例の代表という国連方式を再度提案した。
北側は黙殺し、6月19日、北の最高人民会議議員565人と南の国会議員210人で朝鮮共和国立法機関をつくる、李承晩らの「民族反逆者」は逮捕するという提案を発表した。当時の人口は南が約2100万、北が960万といわれた。
しかし、北の提案は、人口が3分の1の北側が議会の73%を占め、そのうえ韓国側指導者は逮捕するというのである。これらの平和統一提案は周到に用意された奇襲攻撃のカモフラージュでしかなかった。
・韓国軍は、6月10日の北側代表越境事件のあと、不測の事態を恐れて非常警戒令を発動したが、6月23日午前0時の解除してしまった。侵攻開始の25日は、緊張のつづいたあとの最初の日曜日であり、農繁期であったから、農村出身の兵士たちに休暇を与えた部隊が多かった。北は完全な奇襲に成功した。
韓国軍の戦闘力は北朝鮮軍にはるかに及ばなかった。開戦時の地上軍兵力は、北側が陸軍と内務省軍隊(治安維持部隊)の合計18万2680人、南側は9万4974人で北の約半分であった。
海軍は海兵隊を含めて北が2万2700人、南が8881人であった。空軍は北がヤク型戦闘機とLL10型・LL12型爆撃機合計211機、南は連絡機14機と練習機10機であった。
北のT34型戦車242両、装甲車54両に対して、南は戦車ゼロ、装甲車27両であった(村上薫『朝鮮戦争』63ページ)。大砲の数や口径も北が圧倒的に優勢であった。南のバズーカ砲は北のT34型戦車には効果がなく、韓国軍兵士は戦車を見ると逃げ出した。≫
★ 米国とソ連の責任
第二次大戦の処理を誤ったことで、朝鮮半島が、分断されました。
この責任は、米国とソ連にあります。
日本の植民地支配を批判しながらも、両国は朝鮮半島を自分たちの自由にしようとしました。
そのことで、朝鮮半島に混乱の「種」が残されたのです。半島を分断することで、中国、
北朝鮮、韓国、日本が争うことを期待したのだと思います。
そうなれば、米国の覇権主義が揺らぐことがないことになるからと、考えたのだと思います。味方同士を争わせる。
これは彼らの常套手段です。もし、朝鮮半島が分断されていなければ、日本とこんなにも、揉めることもなかったでしょう。
そうなれば中国との関係も良好なものになっていたことでしよう。そう考えると、米国の民主主義とは、「自国に都合のいい」ものでしかなかった、といえる気がします。
※ 明日は、さらに戦闘の様相を見ていきます。
(2015年11月14日)
1950年6月25日午前4時、北朝鮮は韓国に対する全面的攻撃を開始します。「朝鮮戦争」の始まりです。しかもそれは奇襲攻撃でした。
戦力は、圧倒的に北が、優勢でした。とくに、戦闘機、爆撃機、戦車については、南は「ないも同然」の状態でした。
★ 「北の奇襲作戦」
≪1950年6月25日午前4時、北朝鮮は韓国に対する全面的攻撃を開始した。30分間の一斉砲撃の後ソ連製T34型戦車を先頭に5方面で38度線を超えた。
攻撃開始に先だって北朝鮮の外交攻勢があった。6月7日以後、ピョンヤン(平嬢)放送は南北平和統一提案を繰り返し、韓国滞在中の国連臨時朝鮮委員会と南朝鮮の政党指導者に統一方式案を手交したいと述べた。
国連委員会は提案に応じ、6月10日、開城付近の38度線で北朝鮮代表と会って文書を受け取った。北の代表は南の政党指導者に会うと称して38度線を越え、韓国警察に逮捕された。ピョンヤン放送はその釈放を激しく要求した。
・約2年半前の1947年11月、国連総会でアメリカは以下の提案を行った。
(1) まず国連臨時朝鮮委員会を設置する。
(2) 1948年3月末までにこの国連臨時朝鮮委員会の監視のもとに全朝鮮の成年者による秘密投票制の総選挙を実施する。
(3) 右の総選挙で南北いずれの投票区からも人口に比例した代表を選出して朝鮮中央政府を組織し、南北に駐在する米ソ両軍から行政の移譲を受ける。
・ソ連はじめ共産圏代表は棄権し、提案は賛成43、反対0、棄権6の圧倒的多数で可決され、オーストラリア、カナダ、インド、フィリピン、エルサルバドル、シリア、フランス、中華民国の8か国代表のよる臨時朝鮮委員会が構成された。しかし、ソ連軍占領下の北朝鮮は国連臨時朝鮮委員会の立ち入りを拒否した。
1948年5月10日、国連はやむをえず南だけで第1回総選挙を実施した。南の共産主義者たちは総選挙に反対し、済州島などの各地で反乱を組織した。
南北協議優先を唱える「協商派」の政治家も立候補せず、選挙では李承晩らの保守派が圧倒的勝利を収めた。8月13日、大韓民国独立が宣言され、アメリカの軍政は終了した。国連は韓国政府を唯一の朝鮮正統政府とみなした。
・北朝鮮では、同年8月25日に「総選挙」が実施され、9月9日に朝鮮民主主義人民共和国樹立が宣言された。「民主主義」がうたわれたが事実上は共産党(朝鮮労働党)の独裁であり、政治的・思想的自由は革命主義の立場から否定された。
・1950年6月16日、北朝鮮への回答として李承晩大統領がラジオで国連監視下の秘密投票と人口比例の代表という国連方式を再度提案した。
北側は黙殺し、6月19日、北の最高人民会議議員565人と南の国会議員210人で朝鮮共和国立法機関をつくる、李承晩らの「民族反逆者」は逮捕するという提案を発表した。当時の人口は南が約2100万、北が960万といわれた。
しかし、北の提案は、人口が3分の1の北側が議会の73%を占め、そのうえ韓国側指導者は逮捕するというのである。これらの平和統一提案は周到に用意された奇襲攻撃のカモフラージュでしかなかった。
・韓国軍は、6月10日の北側代表越境事件のあと、不測の事態を恐れて非常警戒令を発動したが、6月23日午前0時の解除してしまった。侵攻開始の25日は、緊張のつづいたあとの最初の日曜日であり、農繁期であったから、農村出身の兵士たちに休暇を与えた部隊が多かった。北は完全な奇襲に成功した。
韓国軍の戦闘力は北朝鮮軍にはるかに及ばなかった。開戦時の地上軍兵力は、北側が陸軍と内務省軍隊(治安維持部隊)の合計18万2680人、南側は9万4974人で北の約半分であった。
海軍は海兵隊を含めて北が2万2700人、南が8881人であった。空軍は北がヤク型戦闘機とLL10型・LL12型爆撃機合計211機、南は連絡機14機と練習機10機であった。
北のT34型戦車242両、装甲車54両に対して、南は戦車ゼロ、装甲車27両であった(村上薫『朝鮮戦争』63ページ)。大砲の数や口径も北が圧倒的に優勢であった。南のバズーカ砲は北のT34型戦車には効果がなく、韓国軍兵士は戦車を見ると逃げ出した。≫
★ 米国とソ連の責任
第二次大戦の処理を誤ったことで、朝鮮半島が、分断されました。
この責任は、米国とソ連にあります。
日本の植民地支配を批判しながらも、両国は朝鮮半島を自分たちの自由にしようとしました。
そのことで、朝鮮半島に混乱の「種」が残されたのです。半島を分断することで、中国、
北朝鮮、韓国、日本が争うことを期待したのだと思います。
そうなれば、米国の覇権主義が揺らぐことがないことになるからと、考えたのだと思います。味方同士を争わせる。
これは彼らの常套手段です。もし、朝鮮半島が分断されていなければ、日本とこんなにも、揉めることもなかったでしょう。
そうなれば中国との関係も良好なものになっていたことでしよう。そう考えると、米国の民主主義とは、「自国に都合のいい」ものでしかなかった、といえる気がします。
※ 明日は、さらに戦闘の様相を見ていきます。
(2015年11月14日)
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