2015年11月5日木曜日

日本初の大規模ストライキ計画「全国の官公庁職員らよるゼネスト」

<web読書会 正村(35)>
今日の日本では考えられないことですが、「実際にあった」――計画されたーーことです。「2・1ゼネスト」とは、「全国官公庁労働者、地方自治団体職員、教職員など、公
務員らによる「統一ストライキ計画」のことです。もし、これが実現していれば、戦後民主主義は、もっと、もっと、ちがったものになっていた、と思います。


今日はこの、「2・1ゼネスト」を読んでいきます。

安保条約の改定を論ずるには、まず、「安保条約」そのものの検討が必要です。そこで、年代をさかのぼって、1947年ごろの日本の状況を振り返っておきたい、と思います。

「2・1ゼネストの中止命令」、「戦後の三大、ミステリーである「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」について。

1951年の「講和条約の締結と安保条約」、「血のメーデー事件」などを急ぎ足で観ていきたいと思います。


 「ゼネスト」

≪1946年12月24日、GHQは、極東員会が12月18に採択した「日本の労働組合奨励策に関する16に原則」を公表した。とくに新しい内容が示されたわけではないが、労働組合の権利の保障が細かく規定されていた。

産別会議は、これを自分たちの運動にたいする極東員委員会による原則的な支持と理解した。産別会議の1947年の年頭の檄文は、右の16原則により「我々の闘争は明瞭に大道として確認されている」と述べ、「用意はよいか、前進だ、民主主義革命の年、1947年」と結んだ。

同じ1947年の年頭、吉田首相はラジオで国民に語りかけた。

吉田は、労働争議やストライキを頻発せしめ、労働攻勢・波状攻撃などと称して社会不安を激成し、経済再建のための挙国一致を妨げるものがあるのは遺憾であると述べ、「私はかかる不逞の輩が国民中に多数ありとは信じませぬ」云々と語った。この「不逞の輩」発言は労働組合側を刺激した。

・1947年1月11日、全官公庁共闘側は、重ねて皇居前広場で「全官公庁労働組合ゼネスト体制確立大会」を開くとともに、先の12月3日付けの第一回要求書につづく第2回要求書を政府に提出した。

全官公庁共闘が発足してからも要求は完全に統一されておらず、賃金、越年手当などの具体的金額は、組合ごとの故障に委ねられていたのであるが、全官公庁共闘はあらためて統一的原則を示して政府の回答を迫っていたのである。

その内容は、最低基本給の確立(最低16歳560円、12月より実施)、越年資金残額(既支給額と組合要求悪との差額)の即時至急、労働協約の即時締結など、13項目からなっており、その中には吉田首相の「不逞の輩」発言取り消しおよび陳謝という項目も含まれていた。

・1月15日、政府はこれにたいする回答したが、内容は第一回要求書にたいする12月10の回答と大差ないものであった。

審議会で検討するとか(賃金)、すでに許される最大限の努力をはらったとか(越年資金)いった回答が多く、具体的改善はなかった。「不逞の輩」発言に関しては「誤解を招いたのは遺憾である」と答えた。

・1月18日、全官公庁拡大共闘委員会が開かれ、最低賃金制要求の統一最低額を680円とすることなどを決めるとともに、ゼネスト投入の日を2月1日と決定した。

・この日、全逓信従組、国鉄労組総連合、全官公労組協議会、全国公共団体職員組合連合会、全日本教員組合協議会(日教組が中心になって1946年12月22に結成)に加えて、日本都市労組同盟、大蔵三現業労組連合会、全国財務労組、全日本医療従組協議会、東京都労連、全国大学高専教職員組合、全日本進駐軍要員労組、日本都市交通労組協議会の8組会が参加することになった。

あわせて13組合、260万人と称される勢力が全校官庁共闘の枠を超えた全労働者の闘争を呼びかける声明を採択した。

共産党は、1月8日、党の第2回全国協議会で声明を採択し、全校官庁労働者のゼネストは「亡国吉田内閣を打倒し、民主人民政権を樹立する全人民闘争への口火である」と呼びかけた。産別会議幹事会も、1月14日、労働者、農民ならびに勤労大衆の経済的要求を基礎とする闘争を急速に政治闘争に発展させ、民主勢力の結集した政府を樹立するまで戦い抜くという方針を決めた。

このように、共産党とその影響下にある産別会議は、経済闘争から政治闘争へ、ゼネストを通じて政権獲得へという路線を明確にした。

吉田首相は、こうした状況を社会党との連立によって打開しようと試みた。吉田は、12月以来、社会党右派の西尾末広、平野力三、左派の鈴木茂三郎と接触して、協力の可能性を打診した。

左派は労働構成の高まりを背景として連立に強く反対した。吉田と幣原(国務相)による社会党片山哲委員長説得の努力も失敗に終わり、1月17日、吉田は連立を断念した。

1月20日夜、産別会議議長聴濤克己が新鋭大衆党員と称する青年二人に刺され、全治一か月の重傷を負った。犯人たちは、ゼネスト中止を勧告したが、聴濤が「大衆の力が盛り上がったもので「中止は出来ない。いつ終わるともわからない」と答えたので刺した、と自供した。≫


 「GHQが認める民主化」

「16の原則」の内容は,(1)組合組織化の奨励,(2)団結権,組合加入の権利,(3)集会,言論,出版などの自由,(4)労使交渉の奨励,仲裁・調停機関の設置,(5)ストその他の作業停止は,占領軍当局占領の目的ないし必要に直接不利益をもたらすと考えた場合にのみ禁止される,(6)組合の政治活動への参加・政党支持が許されること,その他,組合民主主義の確保など戦後日本の民主化の一環として,労働組合運動の〈解放〉が方針をしめすものでした。

これはまた、日本が降伏を受け入れるに当たり承諾した「ポツダム宣言」の精神を実行に移すものでした。

しかし、結局のところ、この「ゼネスト」は、GHQの中止命令が出て、実行することは出来ませんでした。

その意味では、「占領軍のいう民主化」とは、「GHQが認める民主化」でしかありませんでした。

米軍の日本占領政策は、「冷戦の始まりとともに、転換を余儀なくされた」と説明されますが、その説明は「間違っている」と思います。

米軍による占領は、--正確には、米国政府による占領ですがーー初めから、徹頭徹尾、「米国の国益を考慮したものであって、日本の民主化は、あくまで、「最低限のもの」でしかありませんでした。

それはまた、米軍が「占領政策を実行する」ための障害を取り除くという程度のものでしかありませんでした。

この占領軍による「民主化の不徹底さ」が、その後に日本の民主化の「大きな障害」として立ちはだかることになります。

 明日は、「ゼネスト中止」を読む予定です。)

(2015年11月5日)

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