2015年11月16日月曜日

北朝鮮軍の侵攻と、米国の韓国への軍事的援助の禁止

<正村 戦後史(45)>
アメリカは、南朝鮮の軍事的空白は北からの侵攻を誘うと考え、米軍撤退後も500人ほどの軍事顧問団を残しました。ところが、韓国への軍事的援助を「なおざり」にしまし
た。

それは、南からの戦争挑発を警戒したためでした。そのために、韓国軍への戦車、重砲、爆撃機などの提供を禁じました。

だから、この当時の韓国軍は、「無防備」に近いものでした。北朝鮮軍に対抗できるはずがなかったのです。


★ 弱い韓国軍 

北朝鮮軍はソ連の援助と指導を受け、十分に訓練されていた。中国人民軍朝鮮人師団やスターリングラード戦に参加した朝鮮人二世のソ連軍将校も北朝鮮軍に編入された。金日成は満州の抗日パルチザンの伝説的英雄とされ、ソ連軍将校として北朝鮮にはいった。

戦後の北朝鮮の共産主義者グループには近失政らのソ連派ほかに日本支配時代に国内で抗日運動をつづけた玄俊?などの国内派、戦争中は中国解放軍にいた金武亭などがあった。

金日成はソ連方式の革命を志向し、「プロレタリア独裁」を一挙に実現しようとした。玄俊赫は、当面は民族自立と民主主義革命をめざすべきだとして金日成と対立していた。玄俊赫は、解放直後の1945年9月28日、ピョンヤン市内で暗殺された。真相は不明だが暗殺者は共産主義者といわれている。

・金日成は権力を掌握すると徹底した土地改革や産業国有化を実施した。北朝鮮の全国民が共産党(朝鮮労働党)指導下の各組織に強制加入させられ、はじきだされた人びとは難民として南朝鮮に逃がれた。その数は1947年12月までの2年間で111万人といわれる。北朝鮮の人口の1割を超える。

・韓国側では政治の混乱がつづいた。予想以上に早い日本の降伏という事態に直面してあわててみ南朝鮮を占領したアメリカ軍には何の準備もなかった。アメリカ軍は農地改革などを試みたが対日政策ほど周到なものではなく、南朝鮮には十分な主体勢力が形成されていなかった。

もっとも能動的な共産主義者は議会と自由と人権よりも革命と独裁を要求した。アメリカ軍は政治活動の自由を保障したが、それを利用して各地で共産主義者が抵抗運動を組織し、暴動や反乱を起こした。

穏健な改革派は十分な影響力をもたず、この派の有力な政治家宋鎮?(韓民党党首)は、1945年12月30日、右翼に暗殺された。 宋鎮?は、日本留学後、「東亜日報」に社長として日本の植民地支配に抵抗をつづけた国内派のリーダーであった。

・玄俊赫と宋鎮禹は、イデオロギーは違ったがともに現実主義的な見方をとっていた。困難な時代を国内で生き抜いた体験がその背後にあったと考えられる。両者の暗殺は戦後の朝鮮の苦難を象徴していた。

林建彦はつぎのように書いている。

「ともに国内に踏みとどまって、苦しい日帝支配の時代を生き抜いてきたいわば国内を代表する二人のインテリ政治家が、解放の日からいくばくも経ないまま、あいついで暗殺の運命に見舞われた事実は、解放朝鮮の苦難の途をそのまま暗示するかのようであった。」(林建彦 『北朝鮮と南朝鮮』 28ページ)

・南朝鮮の統治勢力の中心には亡命先のアメリカから帰国したり李承晩がすわった。李承晩らは、改革に抵抗し、民衆運動に強圧的態度で臨んだ。共産党は李承晩政権との対決路線を選んだ。

共産党が、韓国軍のなかに秘密組織を築き上げ、各地の組織的暴動に関係していることが判明し、有力な将校を含む軍人が逮捕され、共産党は非合法化された。多数の軍人と兵士が脱走し、北から潜入した部隊と合流して「人民遊撃隊」を編成した。

1949年6月の在韓米軍撤退の時期までに共産主義者として粛清された将兵は当時の全韓国軍の1割を負える8000人に達したといわれる。

アメリカ政府は、南朝鮮の軍事的空白は北からの侵攻を誘うと考え、米軍撤退後も500人ほどの軍事顧問団を残したが、同時に南からの戦争挑発を警戒し、韓国軍への戦車、重砲、爆撃機などの提供を禁じ、軍事援助を少額に抑えた。

李承晩自身をはじめ、「自由選挙」を拒否して武力統一の気配を見せる北朝鮮に逆に進行すべきだと叫ぶ強硬意見が南側にも少なくなかったからである。

1950年6月25日の戦闘開始とともに 韓国軍は打撃を受けた。ソウル(京城)正面の平野部では戦車を先頭とする北朝鮮軍主力の強襲で韓国軍前線は短時間に突破された。ソウルは開戦四日後の6月28日に北朝鮮軍に占領された。

北朝鮮軍は、残留韓国政府関係者、政党人、軍人、地主、警官などのを逮捕し、処刑したり北へ連行したりした。北側との協力の必要を説いた政治家たちも、政治宣伝に利用出来ると考えられたらしく、連れ去られ、消息不明になった。

北朝鮮軍は土地の無償没収などの変革を強行し、「民族反逆者」の粛清と称して多数を処刑した。韓国政府は、まずソウル南方の水原、ついで太田、大邱へと逃げ、8月18日には朝鮮半島南端の釜山に移動した。』


 「隙をつくる」ことになった、米国の対応

「アメリカ政府は、南朝鮮の軍事的空白は北からの侵攻を誘うと考え、米軍撤退後も500人ほどの軍事顧問団を残したが、同時に南からの戦争挑発を警戒し、韓国軍への戦車、重砲、爆撃機などの提供を禁じ、軍事援助を少額に抑えた。」のは、本当に、韓国からの戦争挑発を警戒したためなのでしょうか。

これには、首をかしげざるをえません。

日本の植民地下にあったわけですから、その日本軍が武装解除されれば、韓国には、この時点で十分な軍備があったとは思えません。

大戦の終結から、5年程度しか時間が経過していないのです。これでは、北朝鮮に「攻めてきてくれ」と言っているようなものではないでしょうか。

朝鮮戦争を誘発したのは、むしろ、このような米国の「政策」「判断」にあったように思えてなりません。

最後には、米軍はこの戦争に介入することになるわけですから、はじめから、韓国の軍備を十分なものにしておけば、北も介入を躊躇することになった。

そう思えるのです。

 次回は、その米軍の介入について読んでいきます。


(2015年11月16日)

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