<正村 戦後史(54)>
連合軍の(米国の)対日政策は、1948年に、180度転換されることになります。それは、日本を、共産主義の「防波堤」にするというものでした。
もちろん、それは講和条約の転換を意味するものでもありました。
★ 対日講和の転換
【日本占領開始から6か月後の1946年2月8日、バーンズ国務長官は、「日独との平和条約は1年以内に完了するものと期待する。しかし、日本の占領は今後15年間つづくだろう」と言明している。
この時期に、すでに日本占領の長期化が予想されているのは注目される。しかし、それはおそらく、主として日本の非軍事化・民主主義化に相当の時間を要するという判断によるものであったろう。
・アメリカ政府内部で対日講和問題の本格的検討が開始されたのは、1946年秋であった。同年9月、マッカーサーは、東京を訪問したパターソン陸軍長官と会談したさいに対日講和条約草案の準備を要請した。
マッカーサー提案を受けて国務省内部に対日講和条約起草チームが編成された。日本課長ボートンが主任となったので、ボートン・グループと呼ばれた。
この段階では、アメリカ自身、講和後の日本が、戦後改革を修正し、再びアメリカの地位を脅かす勢力となるのを防止することに関心を持っていた。他の連合国も日本の軍事大国としての復活を恐れていた。
ボートン・グループは、アメリカ国民を納得させ、他の連合国の同意をも得るためには、日本に厳しい制限を課する条約が必要だと考えた。
・1947年3月、マッカーサーは、記者団との会見ではじめて対日講和促進の意思を公表した。
・このころ、ボートン・グループの作成した第1次草案がマッカーサーに提示された。それには、平和条約と同時に非武装条約を締結すること、その履行を強制するため極東委員会に管理理事会と査察軍を設置し、25年間にわたり日本を監視することが規定されていた。
マッカーサーは、この案のように長期にわたって外国軍隊を駐留させることに反対であった。同年8月マッカーサーの見解をいれて第2次案がつくられた。そこにも、非武装化・非軍事化の規定があり、それを履行させる方法として、極東委員会構成諸国の大使委員会とその日本常駐スタッフによる必要な機関の監視が規定されていた。
アメリカ国務省は、対日講和早期実現をめざして他の連合国の説得に努めた。他の連合国は当初は気乗り薄であったが、1947年6~7月ごろにはソ連を除く10か国が参加の意向を示した。
1947年8月中旬にサンフランシスコで対日講和会議を開催する予定までたてられた。しかし、米ソが対立して交渉は難航し、会議は延期された。
・アメリカは、ソ連が参加を拒否した場合でも講和を実現するという「片面講和」方式の可能性を検討した。マッカーサーは、最初から片面講和論であった。
アメリカ政府はソ連との交渉の可能性を求めていたが、この時期には片面講和もやむを得ないという考えに固まった。しかし、ソ連は(まだ南京にあった蔣介石政権)に圧力をかけてアメリカ方式を拒否させたために、早期講和の見通しは消えた。
アメリカとしても、ソ連にみならず中国も参加しない対日講和を強行する訳にはいかないと考えたからである。
・ボートン・グループは1948年1月、修正案を作成したが、作業はこの段階で事実上打ち切られた。
・1948年にはアメリカの対日政策が全面的な転換を遂げた。すでに触れたように、国務省政策企画部長ケナンは同年3月に日本を訪問したが、帰国後提出した報告書のなかで対日講和条約締結延期を提案した。
ケナンは、日本の警察力強化や沖縄の永久保有を含むアメリカ軍による基地使用の長期的保障の必要など、日本の安全保障措置について一連の提案を行い、また、改革の強制の停止と経済復興の促進を強調した。
ケナンは、この報告書なかで、将来の対日講和は簡潔な内容のものとし、懲罰的要素は除くべきだと述べた。ケナン報告書にもとずき、対日政策の基本的変更を意味するNSC13/2が立案され、1948年10月に安全保障会議で採択された。
NSC13/2は、「日本が占領の終了後も安定を維持し、自発的意思でアメリカの友好国として残るよう経済的・社会的に強化する」ことを目標として、平和条約のタイミングやその性格の再検討、日本の経済復興と経済安定に実現、改革の強化の停止と日本政府の自主性の強化などの施策を示している。
マッカーサーは、改革の強制を停止して日本の自主性にぬだねよという方針に強く反発した。しかし、経済復興と経済安定に実現をめざすNSC13/2の方針は、1948年末以後、いわゆる経済9原則の提示とドッジ公使派遣という形で実施に移された。】
★ 「復讐戦」を恐れた米国
日本を民主化して、「二度と米国に逆らえないようにする」ための方策は、「原爆投下」への復讐を恐れる米国の「不安」を取り去るためのものでもあった、と思います。
近代の戦争は、そのほとんどが、「復讐戦」でした。アメリカがもっとも、恐れたのは、日本が「復讐戦」をすることでした。
それをさせないために、米国の当初の計画は、日本を農業国に押し込めておくことでした。そのためには、工業再建を、阻止する計画でした。
しかし、ソ連との冷戦、朝鮮戦争、中国革命などの影響で、対日政策は、大転換することになりました。
このことは、日本の再建を早めることにもつながりました。日本は、昭和30年の当初には、はやくも「戦前の水準」まで、経済を復興させることが出来ました。
※ 明日は、「片面講和」を観ていきます。
(2015年11月27日)
連合軍の(米国の)対日政策は、1948年に、180度転換されることになります。それは、日本を、共産主義の「防波堤」にするというものでした。
もちろん、それは講和条約の転換を意味するものでもありました。
★ 対日講和の転換
【日本占領開始から6か月後の1946年2月8日、バーンズ国務長官は、「日独との平和条約は1年以内に完了するものと期待する。しかし、日本の占領は今後15年間つづくだろう」と言明している。
この時期に、すでに日本占領の長期化が予想されているのは注目される。しかし、それはおそらく、主として日本の非軍事化・民主主義化に相当の時間を要するという判断によるものであったろう。
・アメリカ政府内部で対日講和問題の本格的検討が開始されたのは、1946年秋であった。同年9月、マッカーサーは、東京を訪問したパターソン陸軍長官と会談したさいに対日講和条約草案の準備を要請した。
マッカーサー提案を受けて国務省内部に対日講和条約起草チームが編成された。日本課長ボートンが主任となったので、ボートン・グループと呼ばれた。
この段階では、アメリカ自身、講和後の日本が、戦後改革を修正し、再びアメリカの地位を脅かす勢力となるのを防止することに関心を持っていた。他の連合国も日本の軍事大国としての復活を恐れていた。
ボートン・グループは、アメリカ国民を納得させ、他の連合国の同意をも得るためには、日本に厳しい制限を課する条約が必要だと考えた。
・1947年3月、マッカーサーは、記者団との会見ではじめて対日講和促進の意思を公表した。
・このころ、ボートン・グループの作成した第1次草案がマッカーサーに提示された。それには、平和条約と同時に非武装条約を締結すること、その履行を強制するため極東委員会に管理理事会と査察軍を設置し、25年間にわたり日本を監視することが規定されていた。
厚木に降り立ったマッカーサー元帥 |
マッカーサーは、この案のように長期にわたって外国軍隊を駐留させることに反対であった。同年8月マッカーサーの見解をいれて第2次案がつくられた。そこにも、非武装化・非軍事化の規定があり、それを履行させる方法として、極東委員会構成諸国の大使委員会とその日本常駐スタッフによる必要な機関の監視が規定されていた。
アメリカ国務省は、対日講和早期実現をめざして他の連合国の説得に努めた。他の連合国は当初は気乗り薄であったが、1947年6~7月ごろにはソ連を除く10か国が参加の意向を示した。
1947年8月中旬にサンフランシスコで対日講和会議を開催する予定までたてられた。しかし、米ソが対立して交渉は難航し、会議は延期された。
・アメリカは、ソ連が参加を拒否した場合でも講和を実現するという「片面講和」方式の可能性を検討した。マッカーサーは、最初から片面講和論であった。
アメリカ政府はソ連との交渉の可能性を求めていたが、この時期には片面講和もやむを得ないという考えに固まった。しかし、ソ連は(まだ南京にあった蔣介石政権)に圧力をかけてアメリカ方式を拒否させたために、早期講和の見通しは消えた。
アメリカとしても、ソ連にみならず中国も参加しない対日講和を強行する訳にはいかないと考えたからである。
・ボートン・グループは1948年1月、修正案を作成したが、作業はこの段階で事実上打ち切られた。
・1948年にはアメリカの対日政策が全面的な転換を遂げた。すでに触れたように、国務省政策企画部長ケナンは同年3月に日本を訪問したが、帰国後提出した報告書のなかで対日講和条約締結延期を提案した。
ケナンは、日本の警察力強化や沖縄の永久保有を含むアメリカ軍による基地使用の長期的保障の必要など、日本の安全保障措置について一連の提案を行い、また、改革の強制の停止と経済復興の促進を強調した。
ケナンは、この報告書なかで、将来の対日講和は簡潔な内容のものとし、懲罰的要素は除くべきだと述べた。ケナン報告書にもとずき、対日政策の基本的変更を意味するNSC13/2が立案され、1948年10月に安全保障会議で採択された。
NSC13/2は、「日本が占領の終了後も安定を維持し、自発的意思でアメリカの友好国として残るよう経済的・社会的に強化する」ことを目標として、平和条約のタイミングやその性格の再検討、日本の経済復興と経済安定に実現、改革の強化の停止と日本政府の自主性の強化などの施策を示している。
マッカーサーは、改革の強制を停止して日本の自主性にぬだねよという方針に強く反発した。しかし、経済復興と経済安定に実現をめざすNSC13/2の方針は、1948年末以後、いわゆる経済9原則の提示とドッジ公使派遣という形で実施に移された。】
★ 「復讐戦」を恐れた米国
日本を民主化して、「二度と米国に逆らえないようにする」ための方策は、「原爆投下」への復讐を恐れる米国の「不安」を取り去るためのものでもあった、と思います。
近代の戦争は、そのほとんどが、「復讐戦」でした。アメリカがもっとも、恐れたのは、日本が「復讐戦」をすることでした。
それをさせないために、米国の当初の計画は、日本を農業国に押し込めておくことでした。そのためには、工業再建を、阻止する計画でした。
しかし、ソ連との冷戦、朝鮮戦争、中国革命などの影響で、対日政策は、大転換することになりました。
このことは、日本の再建を早めることにもつながりました。日本は、昭和30年の当初には、はやくも「戦前の水準」まで、経済を復興させることが出来ました。
※ 明日は、「片面講和」を観ていきます。
(2015年11月27日)
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