<正村 戦後史(48)>
マッカーサーは、繰り返し中国本土爆撃を含む強硬策をワシントンに要求。トルーマンは、ついに、マッカーサーを解任します。同時にマッカーサーは、日本
を離れることになりました。
このことは、米国の日本への占領政策の転換となって跳ね返ってくることになります。その意味でも、朝鮮戦争は日本にとっては、大きな影響を与える戦争であった、と言うことが出来ると思います。
★ マッカーサーを解任
≪マッカーサーは、ワシントンの方針に不満であり、中国本土爆撃と沿岸封鎖、国府軍の朝鮮戦争参加と中国南部上陸による第2戦線の形成、原爆の使用などを提案した。
・1951年1月13日、カナダなどが国連政治委員会に次の決議案を提出した。
(1)現状での即時停戦 (2)休戦期間中の朝鮮問題の政治的解決。(3)外国軍隊の段階的撤退。(4)台湾問題と中国国連加入問題の米英ソ中の4か国による協議。
・国連軍は37度線付近まで後退し、ソウルは北側の支配下にあった。アメリカには屈辱的な提案である。しかし、アメリカは朝鮮半島からの完全な敗退の危険さえ感じていため、停戦案に合意した。
中国は、交渉の結果による休戦、交渉開始時の中国国連加盟承認など強硬な提案でこたえ、交渉は決裂した。リッジウェイは強固な防衛陣地を築き、中朝軍の正月攻勢をもちこたえた。
2月1日、国連総会は中国を侵略者とする非難決議を採択した。国連軍は中朝軍の2月攻勢を撃退し、3月7日にソウルを再奪還した。9か月間にソウルの支配者は4回変わった。
その後も38度線付近の新防衛線周辺で死闘が繰り返された。北側は大量の兵員を国連軍陣地に肉薄させる人海戦術を展開し、激戦のあとに中国兵士の死体が累々と横たわった。日本を基地とする米空軍は満州を基地とする共産側空軍にたいして優勢で、中朝軍陣地と北側補給拠点に猛爆撃を加え、主要都市を破壊した。
激戦地は砲爆撃で地形が変わった。中朝軍はいたるところに地下壕を築いて対抗し、北朝鮮全体が要塞と化した。
・マッカーサーは、繰り返し中国本土爆撃を含む強硬策をワシントンに要求し、トルーマンとの対立が深刻化した。トルーマンは休戦を呼びかける声明を用意していたが、3月24日、マッカーサーは、中国本土爆撃を含む強硬策の必要を説いた独自の声明を東京で勝手に発表した。
トルーマン声明は発表の機会を失った。マッカーサーは、野党の共和党議員の書簡への返書で、トルーマン政権の政策は国連軍の行動を厳しく制限して勝利の機会を失わせていると激しく非難した。それが議会でトルーマン攻撃に使われた。
・1951年4月11日(米国東部時間)、トルーマンはマッカーサーを解任した。後任にリッジウェイが任命された。第二次大戦後の日本の事実上の最高権力者であったマッカーサーは、4月16日(日本時間)、日本を離れた。
米本国には共産主義にたいする憎悪が充満していた。対日戦の英雄であると同時に反共十字軍の指揮官として、マッカーサーは、議会からも国民からも熱烈な歓迎を受けた。
・国連軍最高司令官リッジウェイは、南朝鮮防衛体制を築きあげたうえで休戦交渉に持ち込むことを課題とした。1951年4月、中朝軍は再び大攻勢に出た。
国連軍は制空権を握っていたが、地上兵力は圧倒的に中朝軍のほうが大きかった。国連軍は40~50キロも押し戻されたが、ソウルは守り抜いた。中朝軍は無数の死体を残して後退した。
5月には東部山地で中朝軍の攻撃が再開され、国連軍は危機に陥ったが、応援部隊を派遣して撃退した。4月~5月の攻勢だけで共産軍側の死傷者はおよそ20万人と推定されている。
6月には国連軍は前進して防衛線を確保した。新しい戦線は西部では38度線よりやや南に下がるり、東部では北に突出していた。朝鮮の古都開城は開戦前には韓国側にあったがいまは北側にはいっていた。
戦闘はつづいたが、中朝軍側もようやく戦局を大きく変える力をもたないことを痛感させられていた。6月23日、ソ連のマリク国連代表が朝鮮停戦交渉を呼びかけた。6月30日、リッジウェイも金日成と彭 徳懐に休戦を提案し、7月1日、金日成が同意を表明した。
李承晩は、アメリカ側の休戦会談提案が「頭越し」に行われたことに憤慨し、停戦交渉に強硬に反対した。李承晩は休戦成立後の韓国の安全に不安を抱いていた。
自己の政治的基盤の弱さを感じていた彼は、アメリカ軍の強硬路線を期待していた。しかし、アメリカは交渉を推進した。7月10日、まず開城付近で休戦会談が開催された。≫
★ 日本も「朝鮮戦争」に参加した
1951年7月10日の開城付近での休戦会談が開催されたのは、ちょうど「戦争」がはじまってから、1年後のことになります。
1953年7月になって休戦協定が成立。両者が協定に調印ということになります。足かけ、3年に及ぶ、「戦争」でした。
この戦争は、日本にも大きな影響を及ぼしました。特に、日本の再武装を促すことにつながりました。
日本の防衛が「留守になることを恐れた」マッカーサーは、「警察予備隊」の創設の「指令」を出します。(1950年7月)
1952年4月には、「講和条約」が発効しました。それまで米軍の占領下にあった日本は、必然的にこの朝鮮戦争に「参加させられる」ことになりました。
戦後の日本は、一度も、戦争をしていないといわれますが、それは正しい歴史認識とは言えない、ということです。
たとえ占領下であったとはいえ、「戦争に参加した」このことは、無視することの出来ない事実です。
このことは、今日の日本と韓国、北朝鮮との関係を考える際に忘れてはならないことである、と私は考えます。
日本の国を占領していた米軍が、ここを基地として、朝鮮半島に出撃していった。そこで多くの人々を殺傷した。この事実を、消し去ることは出来ません。
※ 次回から、日本再軍備について読んでいきます。
(2015年11月20日)
マッカーサーは、繰り返し中国本土爆撃を含む強硬策をワシントンに要求。トルーマンは、ついに、マッカーサーを解任します。同時にマッカーサーは、日本
を離れることになりました。
このことは、米国の日本への占領政策の転換となって跳ね返ってくることになります。その意味でも、朝鮮戦争は日本にとっては、大きな影響を与える戦争であった、と言うことが出来ると思います。
★ マッカーサーを解任
≪マッカーサーは、ワシントンの方針に不満であり、中国本土爆撃と沿岸封鎖、国府軍の朝鮮戦争参加と中国南部上陸による第2戦線の形成、原爆の使用などを提案した。
・1951年1月13日、カナダなどが国連政治委員会に次の決議案を提出した。
(1)現状での即時停戦 (2)休戦期間中の朝鮮問題の政治的解決。(3)外国軍隊の段階的撤退。(4)台湾問題と中国国連加入問題の米英ソ中の4か国による協議。
・国連軍は37度線付近まで後退し、ソウルは北側の支配下にあった。アメリカには屈辱的な提案である。しかし、アメリカは朝鮮半島からの完全な敗退の危険さえ感じていため、停戦案に合意した。
中国は、交渉の結果による休戦、交渉開始時の中国国連加盟承認など強硬な提案でこたえ、交渉は決裂した。リッジウェイは強固な防衛陣地を築き、中朝軍の正月攻勢をもちこたえた。
2月1日、国連総会は中国を侵略者とする非難決議を採択した。国連軍は中朝軍の2月攻勢を撃退し、3月7日にソウルを再奪還した。9か月間にソウルの支配者は4回変わった。
その後も38度線付近の新防衛線周辺で死闘が繰り返された。北側は大量の兵員を国連軍陣地に肉薄させる人海戦術を展開し、激戦のあとに中国兵士の死体が累々と横たわった。日本を基地とする米空軍は満州を基地とする共産側空軍にたいして優勢で、中朝軍陣地と北側補給拠点に猛爆撃を加え、主要都市を破壊した。
激戦地は砲爆撃で地形が変わった。中朝軍はいたるところに地下壕を築いて対抗し、北朝鮮全体が要塞と化した。
朝日の「号外」 |
・マッカーサーは、繰り返し中国本土爆撃を含む強硬策をワシントンに要求し、トルーマンとの対立が深刻化した。トルーマンは休戦を呼びかける声明を用意していたが、3月24日、マッカーサーは、中国本土爆撃を含む強硬策の必要を説いた独自の声明を東京で勝手に発表した。
トルーマン声明は発表の機会を失った。マッカーサーは、野党の共和党議員の書簡への返書で、トルーマン政権の政策は国連軍の行動を厳しく制限して勝利の機会を失わせていると激しく非難した。それが議会でトルーマン攻撃に使われた。
・1951年4月11日(米国東部時間)、トルーマンはマッカーサーを解任した。後任にリッジウェイが任命された。第二次大戦後の日本の事実上の最高権力者であったマッカーサーは、4月16日(日本時間)、日本を離れた。
米本国には共産主義にたいする憎悪が充満していた。対日戦の英雄であると同時に反共十字軍の指揮官として、マッカーサーは、議会からも国民からも熱烈な歓迎を受けた。
・国連軍最高司令官リッジウェイは、南朝鮮防衛体制を築きあげたうえで休戦交渉に持ち込むことを課題とした。1951年4月、中朝軍は再び大攻勢に出た。
国連軍は制空権を握っていたが、地上兵力は圧倒的に中朝軍のほうが大きかった。国連軍は40~50キロも押し戻されたが、ソウルは守り抜いた。中朝軍は無数の死体を残して後退した。
5月には東部山地で中朝軍の攻撃が再開され、国連軍は危機に陥ったが、応援部隊を派遣して撃退した。4月~5月の攻勢だけで共産軍側の死傷者はおよそ20万人と推定されている。
6月には国連軍は前進して防衛線を確保した。新しい戦線は西部では38度線よりやや南に下がるり、東部では北に突出していた。朝鮮の古都開城は開戦前には韓国側にあったがいまは北側にはいっていた。
戦闘はつづいたが、中朝軍側もようやく戦局を大きく変える力をもたないことを痛感させられていた。6月23日、ソ連のマリク国連代表が朝鮮停戦交渉を呼びかけた。6月30日、リッジウェイも金日成と彭 徳懐に休戦を提案し、7月1日、金日成が同意を表明した。
李承晩は、アメリカ側の休戦会談提案が「頭越し」に行われたことに憤慨し、停戦交渉に強硬に反対した。李承晩は休戦成立後の韓国の安全に不安を抱いていた。
自己の政治的基盤の弱さを感じていた彼は、アメリカ軍の強硬路線を期待していた。しかし、アメリカは交渉を推進した。7月10日、まず開城付近で休戦会談が開催された。≫
★ 日本も「朝鮮戦争」に参加した
1951年7月10日の開城付近での休戦会談が開催されたのは、ちょうど「戦争」がはじまってから、1年後のことになります。
1953年7月になって休戦協定が成立。両者が協定に調印ということになります。足かけ、3年に及ぶ、「戦争」でした。
この戦争は、日本にも大きな影響を及ぼしました。特に、日本の再武装を促すことにつながりました。
日本の防衛が「留守になることを恐れた」マッカーサーは、「警察予備隊」の創設の「指令」を出します。(1950年7月)
1952年4月には、「講和条約」が発効しました。それまで米軍の占領下にあった日本は、必然的にこの朝鮮戦争に「参加させられる」ことになりました。
戦後の日本は、一度も、戦争をしていないといわれますが、それは正しい歴史認識とは言えない、ということです。
たとえ占領下であったとはいえ、「戦争に参加した」このことは、無視することの出来ない事実です。
このことは、今日の日本と韓国、北朝鮮との関係を考える際に忘れてはならないことである、と私は考えます。
日本の国を占領していた米軍が、ここを基地として、朝鮮半島に出撃していった。そこで多くの人々を殺傷した。この事実を、消し去ることは出来ません。
※ 次回から、日本再軍備について読んでいきます。
(2015年11月20日)
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