<正村 戦後史(41)>
今日は、「戦後3大疑獄事件」を読んでいきます。それは、下山事件、三鷹事件、松川事件です。
この事件は、日本共産党の「運命」を大きく変えることになる事件でもありました。また、この事件の特徴は、全てにおいて、「国鉄」が関係しているということにあります。
▲ 下山事件、三鷹事件、松川事件
≪この年の夏、日本の労働運度に関する暗い事件が相次いで起こった。
・1949年5月30日、東京都議会に公安条例が上程されようとしていた。東京における集会・デモなどの大衆行動に規制を設けようとするものであった。
人員整理問題などに対する反対闘争を起こしていた各労働組合は、東京都労連(都の職員の労働組合と都の公営事業部門の労働組合の連合体)を中心として、この条例にたいする反対共同闘争委員会を組織した。
・5月30日、その動員で多数の労働者が都議会に押しかけ、都庁の建物のなかに座り込んだ。夜9時半、警察官がこれを排除しようとして揉み合うち、東交労組(都営交通事業の労同組合)員であり社会党員でもあった一労同者が3階から転落して死亡した。
労働組合側は警官の暴行によると主張し、抗議運動を起こした。自然発生的なストライキやサボタージュも広がった。
・7月5日、国鉄総裁下山定則が、出勤の途中、日本橋三越本店にはいったあとで行方委不明になった。下山は、6月午前0時25分ごろ、東京北部の足立区内にある常磐線綾瀬駅付近の線路上で、バラバラに轢断された死体となって発見された。
・下山事件は、7月1日、国鉄労組にたいして合計9万6000人の人員整理を伝えていた。その後、連日のように労使代表の話合いが行われていた。行方不明になった5日は、労働組合側の申し入れにたいする回答を伝えるため、再び下山自身が労働組合代表と会う約束であった。
・下山事件については、下山が他の場所で殺害され、自殺に見せかけるために線路上に運ばれたものとする他殺説と、占領軍の圧力で人員整理を強行せざるをえなくなったための心労によるとする自殺説が登場した。
事件としては今日まで未解決になっている。
当初、左翼に疑いをかける意見もあったが、のちにはアメリカの謀略機関の犯罪とする見方も出てきた。いずれにせよ、下山総裁の死は労働組合側に大きな衝撃を与え、人員整理の対する抵抗は著しく減殺された。
・国鉄労組内部では、闘争方針をめぐる対立が先鋭化した。強硬派は、人員整理反対のためには公共企業体労働関係法を無視して非合法のストライキをも辞さない方針をとるべきだと主張した。
しかし、民主化同盟(民同)などは、そうした闘争方針は共産党の暴力革命路線に労働組合員を動員するものだと反対し、経済再建のためには国鉄の輸送を守らなければならないという立場から戦術転換の必要を説いた。
・下山事件の10日後の7月15日夜9時半ごろ、東京西郊の中央線三鷹駅構内で、三鷹電車区の車庫にあった無人の電車が暴走し、構内を通行していた一般市民6人が即死、20人余りが重軽傷を負うという事件が起こった。
何者かが車庫にあった電車の主幹制御器を全速の状態にし、パンタグラフを上げて発射させたのちの飛び降りて逃走したものと判断された。16日、吉田首相は「共産主義者が社会不安を挑発している」と発言した。
17日以後、三鷹事件の容疑者として、国鉄労組分会の幹部などの共産党員が相次いで逮捕された。結局、非党員を含む10人が起訴された。一部の被告が共同謀議自供したが、にちに全面敵に否定し、逮捕者中ただ一人の非党員であった竹内景助が自分の単独犯行だといいだした。
・1950年8月10日の第1回判決は共同謀議を否定して竹内の単独犯行とし、他を無罪とした。・・・・・・竹内は公判中に幾度か供述を変え、最後には無実を主張したが、1967年1月に刑務所内で死亡した。
・三鷹事件から約1か月後、8月17日午前3時9分、東北本線の金谷川と松川の両駅(福島県)の中間地点で青森発奥羽線まわり上野行きの旅客列車の前部が当然脱線し、機関車は車輪を上に向けて転覆、機関士・機関助手の計3人が死亡、荷物車掌・乗客の5人が負傷した。
レールの継ぎ目板を外し、レールを枕木に固定する犬釘を大量に引き抜いておくという計画的犯行であることが分かった。18日、官房長官増田甲子七は、「集団組織による計画的妨害行為と推定される」と語った。
・9月10日以後、国鉄労組関係者と東芝松川工場労組の関係者、合計20人が逮捕され、起訴された。
・この松川事件の裁判は、1950年12月に第1回の判決(福島地裁)があり、死刑5人、無期懲役5人、有期懲役10人というものであった。・・・1961年8月、仙台高裁は全員無罪の判決を下し、1963年9月に最高裁が検察官の上告を棄却して被告たちの無罪が確定した。
事件発生から14年後のことである。≫
▲ 共産党は、「凋落の一途」を辿る
多くの犠牲者を出したこの「3事件」ですが、結局は、「誰一人として犯人」を確定するには、いたっていません。
三鷹事件も、竹内が「獄内」において、「死亡」したので、「解決」していません。
この事件以後の共産党は、「凋落の一途」を辿ることになります。この事件を仕組んだ「何者か」の、「真の意図」は、「成功」することになった、と言ってよいと思われます。
当時の日本の指導者は、盛んにこの事件に「共産党員」が関わっているかのような「宣伝」を行います。
彼らの意図も、「成功した」ということが出来るでしょう。
日本共産党が、今日において、「何となく胡散くさい」政党であるかのようにみられているのは、――「この事件」と、この事件を「利用して」――さも、この事件を起こしたのが、共産党であるかのように「吹聴した」警察や、政権の「意図を見抜くこと」が出来なかった日本国民が、多数存在した、ということにあると思います。
民主党が、何故、日本共産党の志位委員長の提案を受け入れようとしないのか。
そこには、この当時に「醸成された」、共産党への、共産主義者への「幻影」を今でも、日本の多くの国民が「捨て去る」ことが出来ずにいるからではないでしょうか。
※ 明日も、この事件と、「その背景」を観ていきます。加筆して、再投稿しました。2015/11/12
(2015年11月11日)
今日は、「戦後3大疑獄事件」を読んでいきます。それは、下山事件、三鷹事件、松川事件です。
この事件は、日本共産党の「運命」を大きく変えることになる事件でもありました。また、この事件の特徴は、全てにおいて、「国鉄」が関係しているということにあります。
▲ 下山事件、三鷹事件、松川事件
≪この年の夏、日本の労働運度に関する暗い事件が相次いで起こった。
・1949年5月30日、東京都議会に公安条例が上程されようとしていた。東京における集会・デモなどの大衆行動に規制を設けようとするものであった。
人員整理問題などに対する反対闘争を起こしていた各労働組合は、東京都労連(都の職員の労働組合と都の公営事業部門の労働組合の連合体)を中心として、この条例にたいする反対共同闘争委員会を組織した。
・5月30日、その動員で多数の労働者が都議会に押しかけ、都庁の建物のなかに座り込んだ。夜9時半、警察官がこれを排除しようとして揉み合うち、東交労組(都営交通事業の労同組合)員であり社会党員でもあった一労同者が3階から転落して死亡した。
労働組合側は警官の暴行によると主張し、抗議運動を起こした。自然発生的なストライキやサボタージュも広がった。
・7月5日、国鉄総裁下山定則が、出勤の途中、日本橋三越本店にはいったあとで行方委不明になった。下山は、6月午前0時25分ごろ、東京北部の足立区内にある常磐線綾瀬駅付近の線路上で、バラバラに轢断された死体となって発見された。
・下山事件は、7月1日、国鉄労組にたいして合計9万6000人の人員整理を伝えていた。その後、連日のように労使代表の話合いが行われていた。行方不明になった5日は、労働組合側の申し入れにたいする回答を伝えるため、再び下山自身が労働組合代表と会う約束であった。
・下山事件については、下山が他の場所で殺害され、自殺に見せかけるために線路上に運ばれたものとする他殺説と、占領軍の圧力で人員整理を強行せざるをえなくなったための心労によるとする自殺説が登場した。
事件としては今日まで未解決になっている。
当初、左翼に疑いをかける意見もあったが、のちにはアメリカの謀略機関の犯罪とする見方も出てきた。いずれにせよ、下山総裁の死は労働組合側に大きな衝撃を与え、人員整理の対する抵抗は著しく減殺された。
・国鉄労組内部では、闘争方針をめぐる対立が先鋭化した。強硬派は、人員整理反対のためには公共企業体労働関係法を無視して非合法のストライキをも辞さない方針をとるべきだと主張した。
しかし、民主化同盟(民同)などは、そうした闘争方針は共産党の暴力革命路線に労働組合員を動員するものだと反対し、経済再建のためには国鉄の輸送を守らなければならないという立場から戦術転換の必要を説いた。
・下山事件の10日後の7月15日夜9時半ごろ、東京西郊の中央線三鷹駅構内で、三鷹電車区の車庫にあった無人の電車が暴走し、構内を通行していた一般市民6人が即死、20人余りが重軽傷を負うという事件が起こった。
何者かが車庫にあった電車の主幹制御器を全速の状態にし、パンタグラフを上げて発射させたのちの飛び降りて逃走したものと判断された。16日、吉田首相は「共産主義者が社会不安を挑発している」と発言した。
17日以後、三鷹事件の容疑者として、国鉄労組分会の幹部などの共産党員が相次いで逮捕された。結局、非党員を含む10人が起訴された。一部の被告が共同謀議自供したが、にちに全面敵に否定し、逮捕者中ただ一人の非党員であった竹内景助が自分の単独犯行だといいだした。
・1950年8月10日の第1回判決は共同謀議を否定して竹内の単独犯行とし、他を無罪とした。・・・・・・竹内は公判中に幾度か供述を変え、最後には無実を主張したが、1967年1月に刑務所内で死亡した。
・三鷹事件から約1か月後、8月17日午前3時9分、東北本線の金谷川と松川の両駅(福島県)の中間地点で青森発奥羽線まわり上野行きの旅客列車の前部が当然脱線し、機関車は車輪を上に向けて転覆、機関士・機関助手の計3人が死亡、荷物車掌・乗客の5人が負傷した。
レールの継ぎ目板を外し、レールを枕木に固定する犬釘を大量に引き抜いておくという計画的犯行であることが分かった。18日、官房長官増田甲子七は、「集団組織による計画的妨害行為と推定される」と語った。
・9月10日以後、国鉄労組関係者と東芝松川工場労組の関係者、合計20人が逮捕され、起訴された。
・この松川事件の裁判は、1950年12月に第1回の判決(福島地裁)があり、死刑5人、無期懲役5人、有期懲役10人というものであった。・・・1961年8月、仙台高裁は全員無罪の判決を下し、1963年9月に最高裁が検察官の上告を棄却して被告たちの無罪が確定した。
事件発生から14年後のことである。≫
▲ 共産党は、「凋落の一途」を辿る
多くの犠牲者を出したこの「3事件」ですが、結局は、「誰一人として犯人」を確定するには、いたっていません。
三鷹事件も、竹内が「獄内」において、「死亡」したので、「解決」していません。
この事件以後の共産党は、「凋落の一途」を辿ることになります。この事件を仕組んだ「何者か」の、「真の意図」は、「成功」することになった、と言ってよいと思われます。
当時の日本の指導者は、盛んにこの事件に「共産党員」が関わっているかのような「宣伝」を行います。
彼らの意図も、「成功した」ということが出来るでしょう。
日本共産党が、今日において、「何となく胡散くさい」政党であるかのようにみられているのは、――「この事件」と、この事件を「利用して」――さも、この事件を起こしたのが、共産党であるかのように「吹聴した」警察や、政権の「意図を見抜くこと」が出来なかった日本国民が、多数存在した、ということにあると思います。
民主党が、何故、日本共産党の志位委員長の提案を受け入れようとしないのか。
そこには、この当時に「醸成された」、共産党への、共産主義者への「幻影」を今でも、日本の多くの国民が「捨て去る」ことが出来ずにいるからではないでしょうか。
※ 明日も、この事件と、「その背景」を観ていきます。加筆して、再投稿しました。2015/11/12
(2015年11月11日)
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