2015年11月30日月曜日

驚くべきこと=対日宣戦した国が、49か国もあった

<正村 戦後史(57)>
講和条約は、米英共同草案として、公表されることになりました。驚くべきことに、関係国は「対日宣戦した49か国」に上りました。



 米英共同草案

【1951年3月29日、アメリカ国務省は、すでに対日平和条約の草案を作成して関係15か国に配布し、その意見を求めていると発表した。4月11日にマッカーサーが解任され、ダレスは16日に3度目の訪日を行った。

ダレスは新任のリッジウェイ最高司令官および吉田首相と会談した。ダレスは、マッカーサーが解任によってアメリカに対日講和政策は影響されないことを日本政府に伝えた。同時に、アメリカ軍の日本駐留の具体的な検討が行われたとみられている。

・アメリカ政府は、対日平和条約をめぐる交渉や講和会議へのソ連の参加は拒まないが、ソ連と妥協する気持ちはなく、ソ連が参加しなくても講和は実現するという方針をとった。

アメリカの条約草案はソ連政府にも送付された。ソ連は、1951年5月3日、アメリカに覚書を送った。内容は、アメリカが日本の非軍事化と民主化という国際的義務を無視し、日本軍に制限を設けず、占領軍の撤退時期を明示していないと批判し、米英ソ中の4か国外相会議開催を要求するものであった。

ソ連のいう「中国」は、もちろん北京政府を指していた。



アメリカは、5月19日、外相会議方式をきめたポツダム協定はヨーロッパ問題処理のためのもであって、日本問題とは関係がないこと、連合国の対日政策を決めたカイロ宣言(1943年11月)に参加した「中国」は蔣介石政権であることなどを指摘してソ連に反論した。

また、平和条約発行以後は「占領軍」はなくなり、国連憲章にもとずき、日本の希望により集団安全宝生が行われにすぎず、それは他国を脅かすものではないとアメリカは主張した。

6月10日、ソ連は再び対米覚書でアメリカを批判したが、このときすでにアメリカはイギリスと対日平和条約の最終的協定にはいっていた。

・ダレスは、6月4日から15日までイギリスとフランスを訪問した。イギリスとのあいだでは、日本にたいする経済的要求と中国代表権問題が主要な論点であった。

イギリスは朝鮮戦争勃発以前の1950年1月に北京政府を承認しており、対日講和会議には北京政府が招請されるべきだと主張した。

アメリカは、中国代表権をめぐる北京と台湾の紛争を対日講和問題に持ち込むのを避けたいという態度をとり、結局、いずれの政府も招かないという方針を採用した。イギリスも最後にはこの案に同意した。

・フランスとのあいだでも対中国政策や対ソ連政策の原則的同意が成立した。フランスは対日経済要求やインドシナ3国にたいする賠償問題に関心を示した。

・対日平和条約のアメリカ側草案は、右の米英会談によって最終的な修正が加えられ、米英共同草案としてまとめられた。この共同草案は、1951年7月3日、その他の極東委員会構成国に送付され、7月13日、議定書案とともにワシントンとロンドンと東京で発表された。

7月20日に、米英両国は、対日宣戦した他の49か国にたいして9月4日からサンフランシスコで開かれる対日平和条約調印鍵への招請状を発送した。

繰り返しアメリカに抗議していたソ連は不参加がうわさあれていたが、8月13日、グロムイコ外務次官以下の代表を出席させると通告した。

最終草案は、8月15日に米英両国によって発表された。とくにフィリピンの要求をいれて賠償問題の項は日本の賠償義務を強調する表現に改めるなどの修正が加えられた。8月22日、フランスの要求にしたがってインドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)にも招請状が送られた。

インドは、中国(北京政府)の参加が予定されていないことと講講和条約後のアメリカ軍駐留問題に関連する文章が条約本文に書き込まれていることに反対し、会議に参加しなかった。ビルマも中国代表権問題でインドと同調し賠償問題で不満を表明していたが、結局、会議は欠席した。】


 日本の占領の「継続」

「ポツダム協定はヨーロッパ問題処理のためのもであって、日本問題とは関係がない」と言うアメリカの「言い訳」は、とんでもない主張でした。

それなら、一体、日本は「ポツダム宣言」をうけいれて「降伏した」のではない、ということになるからです。そんな馬鹿なことはありません。

ソ連の肩を持つ訳ではないのですが、ソ連の「言い分」が、正しいということになります。

「日本軍に制限を設けず、占領軍の撤退時期を明示していな伊」と言うソ連の批判も、正当なものです。

ポツダム宣言は、日本の民主化が行われたときは、占領軍は、「引き上げる」と書かれてあったのですから。

結局、これは、日本を米国がいつまでも、「占領下に置く」ということに他ならない、ものであったということが出来るでしょう。


※ 次回は、両面講和」を見ていきます。

(2015年11月30日)

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