2015年11月1日日曜日

教育が”狂育”になる危険性⇒「公共」(高校学校・社会科)の新設答申

教育が”狂育”になる危険性を孕(はら)む、と思う。
高等学校に「新設」予定の新科目、「公共」の「答申」ことである。18歳に選挙権が与えられてことに基ずく処置であるとされるが、時の政権に「利用」される危険性がある。そうなれば、再び、同じ過ち過ちを繰り返すことになりかねない。




それにしても、学習指導要領が改定されるたびに、教科がコロコロと変わりすぎる。

今回の「答申」は、それが自民党や安倍政権の「都合」で導入された「18歳選挙権」に関係しているというのであるから、そのまま素直に受け取ることは出来ない。

この「公共」新設に関して、「弁護士ドット・コム」が、≪「公共」は本当に必要か? 現役高校教師の弁護士に聞いた≫という記事を掲載した。

記事を書いた、「現役高校教師の弁護士」=神内聡氏の結論は、「『公共』という新科目を導入する積極的な意義は乏しいのではないか」というものである。

以下、その「理由」を観ていきながら、コメントをしてみたい。


1) 高等学校に、新科目=「公共」

神内聡氏は、「公共」という科目を作る「意義」について、以下のように言う。
≪現行の教科の「公民」として、「現代社会」「倫理」「政治・経済」という3科目があるのに、なぜわざわざ新たに「公共」という科目を作るのか、・・・・
文科省が今年5月に発表した「公共」の検討素案をざっと見た限り、内容は現行の「公民」の各科目(「現代社会」「倫理」「政治・経済」)とほとんど違わないように感じます。ただし「公共」の目指すところは、これら現行の公民科目と少し異なります。
たとえば、公民科目の目標は現代社会を「主体的に考察」することにありますが、「公共」の目標は「主体的な選択・判断」を行えるようにすることです。生徒には、考察だけでなく、選択・判断においても、主体性を持てるよう求めています。
また「公共」では、「『他者と協働』しながら課題を解決」することも求められており、この点も、公民科目にはない特徴といえます。≫

2) 多様な価値観に触れる

また、外部の人間が授業に関与する「機会」が増える「メリット」がある、とも述べる。

≪「公共」ではこれまで以上に、外部の人間が授業に関与する機会が増えますから、生徒が多様な価値観に触れることの意義はあるでしょう。
教員兼弁護士の私としても、「公共」で導入される外部の専門家の関与については、大変関心があります。教員は担当教科以外の専門性や学校現場以外の社会経験に乏しいので、外部の人間が社会科教育に関与することは歓迎すべきことです。・・・
(一方で=私)そもそも、教育現場で一定期間公民科目を教えた経験がない外部の専門家が、系統的な公民教育を意識することは非常に困難です。公民科目の授業に関与できるような外部の人材が不足しすぎているのが実情ではないでしょうか。≫

3) 積極的な意義は乏しい

で、神内聡氏が導く結論は、「現在の日本の教育現場において『公共』という新科目を導入する積極的な意義は乏しいのではないか」。これが、率直な私見(神内聡氏の)である、というものだ。

神内氏は、(1)について、「『公共』では討論(ディベート)、模擬選挙、模擬裁判などの体験的学習が強調されています。もっともこうした学習活動は、多くの学校の公民科目で既に取り入れられているため、特に目新しいものではありません」という。

(2)については、「外部の専門家が、系統的な公民教育を意識することは非常に困難」外部の人材が不足しすぎ」を理由に、同じく、あまり「意味がない」と思考する。


文科省が教科の新設理由(=目標)に「”主体的な選択・判断”をおこなうこと」としているからといって、それがそのまま実現するかどうかは分からない。

だが、おおむね、神内聡氏の「知見は、的を射たものになっている、と私は思う。

ただ、「教員は担当教科以外の専門性や学校現場以外の社会経験に乏しい」と「断定」していることについては、多少の異議がある。

確かに、教員は大学を卒後後、すぐに教員に採用され、「世間に疎い」ということはあるかもしれない。それは、多分、間違ってはいないだろう。

だからと言って、その「状態」が、ずっと「継続」すると決めつけるのは、いかがなものか。(このことに関しては、今はこれ以上触れない。触れると、話が長くなるので。)


4) 「教育」が「狂育」になる危険性

さて、この記事で、神内聡氏が触れていないことを、補足しておきたい。それは、生徒を指導する教員の養成と、現場に採用する場合のことについてである。

安倍政権は、現在、教員免許と教員の採用について、国家統制を強めようとしている。

今年の5月、自民党は、「教員免許の国家資格」+「共通試験や研修で資質向上」という二つの要請を、安倍政権におこなった。

これは、自民党の「要請」という形になっているが、ーー恐らくはーー安倍首相の「意を汲んだもの」であろう。それは、このたびの「安保法」と同じ構図である、と思う。

これは、要するに、「国家の都合のいい教員」を養成し、その教員に学校で生徒の指導を行わせる、という「構想」にほかならない。

そうであって見れば、その先生に教わる生徒が、「主体的選択性」を持った「人格」を獲得できるとは到底思えない。

指導する教員に「主体的選択性」がないのに、その先生に教わる生徒に「主体的選択性」が育つ訳がないのである。


要するに、「18歳選挙権」、「公共」の新設、すべてが「泥縄」であることが、問題の根底にある。それは、ひとえに「安倍首相の思い」が優先された結果による。

教育は「国家の00年の計」といわれる。もちろん、それも重要なことである。だが、それ以上に重要なことは、教育の目的である。

教育基本法は、「教育は、個人の人格の完成をめざし」て行われなければならない、と規定する。このことである。

教育は、「個人の将来」に関わる事柄である。ここが肝心な点だ。これを忘れた「教育」は、「狂育」になる。

私は、そう思うのである。

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高校に新科目案「公共」「歴史総合」 18歳選挙権受け=朝日D

 一部、事実誤認がありましたので、訂正をして、再投稿しています。2015/11/2)

(2015年11月1日)

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