<正村 戦後史(49)>
国家警察予備隊の創設。いわゆる警察予備隊のことです。マッカーサーの命令によるものです。日本の国会審議を経て造られたものではありません。
でも、米国の占領下にあった日本は、その命令を拒否出来ませんでした。もちろん、この命令を「喜んで」受け入れた人々もいたのでした。
★ 国家警察予備隊の創設。
≪1950年7月8日、マッカーサーは、吉田首相に書簡を送り、国家警察予備隊の創設と海上保安庁の人員拡充を支持した。朝鮮戦争勃発から約2週間後である。
マッカーサー書簡は、「日本のみならず、いたるところにおいて、法の正当な手続きを覆し、平和と公共の福祉に反する攻勢の機会をねらう不法な少数者」がおり、民主主主義社会の安全を守るために警察力の増強が必要だと述べている。
・日本の警察制度は、すでに1948年3月施行の警察法により、地方自体体警察と国家地方警察に再編成されていた。これを当時のマッカーサー書簡は、一般警察制度のほかに7万5000人の警察予備隊の創設を指示した。
警察力は総数20万になる予定であったが、GHQは、警察予備隊を一般の警察制度と切り離し、独自の組織とする意向であった。それは事実上、軍隊の再建であった。
・海上については戦後初期から帝国海軍解体後の沿岸の治安維持と警備、密入国取り締まり、海上の保安・救難活動などを担当する機構の必要が感じられ、GHQの要請でアメリカからコースト・ガード(沿岸警備隊)の士官などが来日して新機構設立のための指導にあたった。
幾つかの構想があったが、結局、運輸省の外局として海上保安庁が設置されることになった。1948年5月1日に発足した(人員は8150)。海上保安庁は勤務の性格上ほとんどが旧海軍経験者で構成された。海軍兵学校出身の旧海軍士官も公職追放猶予の取り扱いをうけて相当数採用された。
旧海軍の残務処理を担当していた厚生省第2復員局から駆潜艇などの小艦艇と人員が海上保安庁に移管された。掃海艇部隊は、戦後の日本の主要港湾および沿岸の機雷の駆除に従事していた。マッカーサー書簡は、この海上保安庁の8000人増員を指示した。
・海上保安庁の掃海艇は、1950年10月、GHQの命令で朝鮮半島沿岸掃海のため米海軍とともに従軍させられ、掃海艇二隻が触雷などで沈没し、死傷者をだした。法的根拠の不明確なこの出動による犠牲者はずっとのちまで秘匿された。
・吉田首相はじめ日本政府の側も警察力強化の必要を感じていたから、マッカーサーの指示は好機であった。政府内部には、警察予備隊のような新組織の創設には将来「日陰者」扱いされないよう国会審議にかけて法律を制定するのが妥当という意見が強かったが、GHQは国会審議による計画の遅延を恐れ、いわゆるポツダム政令による実施を要求した。
マッカーサー書簡から約1か月後の8月10日、政令260号として「警察予備隊令」が交付され、同13日に予備隊員募集開始、23日に第一陣が入隊した。≫
★ 安保法で「正式の軍隊」に
「国家警察予備隊」とは名ばかりで、その実は「軍隊」の再建に他なりませんでした。
やがては、保安隊⇒自衛隊となっていくことは、御存じの通りです。
そして、今もって、自衛隊は「「日陰者」扱いということに変わりまありません。
それを安倍首相が、安保法で「正式の軍隊」にしようとしています。
安倍首相は、憲法の第9条の改定を「口に出す」ようにななりました。もはや、安倍首相には、「怖いものはない」と言ったところのようです。
※ 次回も、引き続き、再軍備の動きを追います。
*「政令260号のついては、「tamutamu2011」さんのブログを使わせていただきました。お礼申し上げます。
(2015年11月22日)
国家警察予備隊の創設。いわゆる警察予備隊のことです。マッカーサーの命令によるものです。日本の国会審議を経て造られたものではありません。
でも、米国の占領下にあった日本は、その命令を拒否出来ませんでした。もちろん、この命令を「喜んで」受け入れた人々もいたのでした。
★ 国家警察予備隊の創設。
≪1950年7月8日、マッカーサーは、吉田首相に書簡を送り、国家警察予備隊の創設と海上保安庁の人員拡充を支持した。朝鮮戦争勃発から約2週間後である。
マッカーサー書簡は、「日本のみならず、いたるところにおいて、法の正当な手続きを覆し、平和と公共の福祉に反する攻勢の機会をねらう不法な少数者」がおり、民主主主義社会の安全を守るために警察力の増強が必要だと述べている。
・日本の警察制度は、すでに1948年3月施行の警察法により、地方自体体警察と国家地方警察に再編成されていた。これを当時のマッカーサー書簡は、一般警察制度のほかに7万5000人の警察予備隊の創設を指示した。
警察力は総数20万になる予定であったが、GHQは、警察予備隊を一般の警察制度と切り離し、独自の組織とする意向であった。それは事実上、軍隊の再建であった。
・海上については戦後初期から帝国海軍解体後の沿岸の治安維持と警備、密入国取り締まり、海上の保安・救難活動などを担当する機構の必要が感じられ、GHQの要請でアメリカからコースト・ガード(沿岸警備隊)の士官などが来日して新機構設立のための指導にあたった。
幾つかの構想があったが、結局、運輸省の外局として海上保安庁が設置されることになった。1948年5月1日に発足した(人員は8150)。海上保安庁は勤務の性格上ほとんどが旧海軍経験者で構成された。海軍兵学校出身の旧海軍士官も公職追放猶予の取り扱いをうけて相当数採用された。
旧海軍の残務処理を担当していた厚生省第2復員局から駆潜艇などの小艦艇と人員が海上保安庁に移管された。掃海艇部隊は、戦後の日本の主要港湾および沿岸の機雷の駆除に従事していた。マッカーサー書簡は、この海上保安庁の8000人増員を指示した。
・海上保安庁の掃海艇は、1950年10月、GHQの命令で朝鮮半島沿岸掃海のため米海軍とともに従軍させられ、掃海艇二隻が触雷などで沈没し、死傷者をだした。法的根拠の不明確なこの出動による犠牲者はずっとのちまで秘匿された。
・吉田首相はじめ日本政府の側も警察力強化の必要を感じていたから、マッカーサーの指示は好機であった。政府内部には、警察予備隊のような新組織の創設には将来「日陰者」扱いされないよう国会審議にかけて法律を制定するのが妥当という意見が強かったが、GHQは国会審議による計画の遅延を恐れ、いわゆるポツダム政令による実施を要求した。
マッカーサー書簡から約1か月後の8月10日、政令260号として「警察予備隊令」が交付され、同13日に予備隊員募集開始、23日に第一陣が入隊した。≫
★ 安保法で「正式の軍隊」に
「保安隊」。かかえているのは、「38銃」? |
やがては、保安隊⇒自衛隊となっていくことは、御存じの通りです。
そして、今もって、自衛隊は「「日陰者」扱いということに変わりまありません。
それを安倍首相が、安保法で「正式の軍隊」にしようとしています。
安倍首相は、憲法の第9条の改定を「口に出す」ようにななりました。もはや、安倍首相には、「怖いものはない」と言ったところのようです。
※ 次回も、引き続き、再軍備の動きを追います。
*「政令260号のついては、「tamutamu2011」さんのブログを使わせていただきました。お礼申し上げます。
(2015年11月22日)
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