昔、懐かしい友にあったように思える、こともあるだろう。人間は、何事も、諦めないことが、大切である。今、理解できなかったら、5年後、10年後に、もう一度読んでみる。そうすれば、分かる時が来ます。それが、読書の醍醐味でもあります。
久しぶりに、小説を手に取ってみました。以前に読んだことある、島崎藤村の『夜明け前』です。私は若いころ、やたらと、長い小説を読むことが好きでした。
とにかく、長い小説を、かなり、読み漁ったように思います。最も長い小説は、中里介山の『大菩薩峠』です。文庫本で、20冊ぐらいの長編小説でした。
「歴史もの」ですが、いわゆる「時代小説」というような感じではありません。設定は、幕末です。それが、「面白く」読めたのでした。
ところが、この『夜明け前』は、読んでいても、「さっぱり」分かりませんでした。
◆ 「有名な小説」
多分、20歳前後のことであったと思うのですが、「有名な小説である」ということで、とにかく、手の取って読み始めたのです。
読み始めから、ただただ、「文字を見た」という感じで、内容は分からなかったのですが、最後まで、目を通すことだけは出来ました。
でも、後に何も残りませんでした。ただ、ただ、退屈なだけで、これが、何故、よく読まれるのか、理解できませんでした。「偉大な小説」であるということが、納得できませんでした。
一体どんなストーリーであったのか、今も、まったく思い出すことが出来ません。『大菩薩峠』のほうは、何倍も長い小説ですが、かなり、覚えています。
登場人物なども、何人かは、思い出すことが出来ます。彼らが、どんな人物であったかも、大体、覚えています。
『夜明け前』とは、大違いです。もっとも、『大菩薩峠』を読んだのは、20代の終わりの頃のことでした。このことは、かなり、大きな要素であると感じます。
◆ 小説は、繰り返し、読むもの
今回、藤村の「『夜明け前』を読んでーーもっとも、まだ、第5章に取り掛かったところーーみて思うのは、小説は「繰り返し」読むものである、ということです。
小説に限らず、「本は」と言うほうが正確でしょうか。――とにかく、あれほど、「何が書いてあるのか」訳が解らなかった、『夜明け前』が、「解る」のです。
「解る」というより、「楽しむ」ことが出来るのです。私にとって、これは、新鮮な「発見」でした。ちょっとした「驚き」でもありました。
最初の「出だし」から、文章を「味わう」ことが出来るのです。まるで、「紙に水がしみ込むように」――このように書くと、少し大げさかもしれませんがーー頭の中に、入ってくるのです。
自然の描写は、素晴らしく、生き生きとしていて、産まれ育った田舎を思い出すようでした。
◆ 「人生の年輪」が、読む力を引き出す
ところで、今回読んでみて、何故、このように「抵抗なく」読み進めることが出来るのだろう、と考えてみました。ふたつ、理由がある、という気がします。
それは、第一には、やはり、私が、それだけ、「年齢を重ねた」ということです。波乱万丈といえるような、「刺激に満ちた」人生ではありませんでしたが、それなりに「齢を取り」、いろいろな経験をし、多少知識も増えた。
このことが、この小説の理解に役立った、ということであると思うのです。
また、私がそれまで、小説は、「会話」が中心の「創作物」である、と考えていたことと、関係があるのかもしれません。
『夜明け前』に、まったく「会話が出てこない」という訳ではないのですが、むしろ、「説明」が多い――それは、紀行文と言ってもいいぐらい――小説です。
幕末の、山奥の日常生活の様子などが、事細かに、描かれています。それが、若いころの私には、「退屈」に感じられたのかもしれません。
しかも、文章自体が、すこし「固い表現」になっており、そのことも、この小説が「古臭い」ものに感じられ、「馴染む」ことが出来なかった、理由かもしれません。
◆ 「読書の醍醐味」
全体の分量からすれば、まだ、半分も、読み終えていないので、この先、どういうように、今の気持ちが変わっていくかは、分かりません。
しかし、――少なくとも、今の時点においてさえ――この小説を、「読み返して」よかったと思っています。
すべての小説が、そうだという訳でもないでしょうが、「いい小説」と言うものは、「価値ある小説」と言うものは、このような小説のことを言うのだと思います。
読むたびに、「新鮮な発見」があり、「文章自体をより味わう」ことが出来る。そういう小説こそ、「真の古典」というにふさわしい、と思います。
「真の古典」の地位を「与える」べきである、と考えます。
同じ本を、繰り返して、何度も読む。これが、「読書のコツ」のように感じます。また、「読書の醍醐味」である、と考えます。
そして、そういう「本」を、1冊でも、2冊でも、持つことが、人生を豊かにしてくれる。人生を、より充実したものにしてくれる。その人に、「深み」を加える。
そして、それこそが、「読書の楽しみ」である。そういう読書が出来たら、幸せな人生を送っている、ということが出来るのではないでしょうか。
そういう意味においても、一度手に取ってみて、「面白くない」と感じたら、しばらく期間をおいてから、再度、「挑戦」してみる。そういう、読書の方法を、若い人々には、特に、勧めたい。
もし、あなたが、読む始めた本が、「難しい」と感じて、途中で投げ出したとしても、5年後、10年後に、もう一度、その本を手に取って、読んでみられることを、勧めます。
そのときは、「スイスイ」と、読むことが出来ることを受け合います。それでも、「まだ、ダメなら」、もう何年か後に、再度挑戦してみてください。
そして、それがあなたにとって、重要な本であればあるほど、「繰り返し」読まれることを、勧めます。
※ 上で述べたことは、普通の読書のこと――いわゆる「専門書」と呼ばれる本を読むこと以外――を念頭において、書いたものです。どうしても、仕事などで読む必要がある、本などについては別のことである、というのは当然です。
(2015年11月日)
久しぶりに、小説を手に取ってみました。以前に読んだことある、島崎藤村の『夜明け前』です。私は若いころ、やたらと、長い小説を読むことが好きでした。
とにかく、長い小説を、かなり、読み漁ったように思います。最も長い小説は、中里介山の『大菩薩峠』です。文庫本で、20冊ぐらいの長編小説でした。
「歴史もの」ですが、いわゆる「時代小説」というような感じではありません。設定は、幕末です。それが、「面白く」読めたのでした。
ところが、この『夜明け前』は、読んでいても、「さっぱり」分かりませんでした。
◆ 「有名な小説」
多分、20歳前後のことであったと思うのですが、「有名な小説である」ということで、とにかく、手の取って読み始めたのです。
読み始めから、ただただ、「文字を見た」という感じで、内容は分からなかったのですが、最後まで、目を通すことだけは出来ました。
でも、後に何も残りませんでした。ただ、ただ、退屈なだけで、これが、何故、よく読まれるのか、理解できませんでした。「偉大な小説」であるということが、納得できませんでした。
一体どんなストーリーであったのか、今も、まったく思い出すことが出来ません。『大菩薩峠』のほうは、何倍も長い小説ですが、かなり、覚えています。
登場人物なども、何人かは、思い出すことが出来ます。彼らが、どんな人物であったかも、大体、覚えています。
『夜明け前』とは、大違いです。もっとも、『大菩薩峠』を読んだのは、20代の終わりの頃のことでした。このことは、かなり、大きな要素であると感じます。
◆ 小説は、繰り返し、読むもの
「書き出し」のところ |
小説に限らず、「本は」と言うほうが正確でしょうか。――とにかく、あれほど、「何が書いてあるのか」訳が解らなかった、『夜明け前』が、「解る」のです。
「解る」というより、「楽しむ」ことが出来るのです。私にとって、これは、新鮮な「発見」でした。ちょっとした「驚き」でもありました。
最初の「出だし」から、文章を「味わう」ことが出来るのです。まるで、「紙に水がしみ込むように」――このように書くと、少し大げさかもしれませんがーー頭の中に、入ってくるのです。
自然の描写は、素晴らしく、生き生きとしていて、産まれ育った田舎を思い出すようでした。
◆ 「人生の年輪」が、読む力を引き出す
ところで、今回読んでみて、何故、このように「抵抗なく」読み進めることが出来るのだろう、と考えてみました。ふたつ、理由がある、という気がします。
それは、第一には、やはり、私が、それだけ、「年齢を重ねた」ということです。波乱万丈といえるような、「刺激に満ちた」人生ではありませんでしたが、それなりに「齢を取り」、いろいろな経験をし、多少知識も増えた。
このことが、この小説の理解に役立った、ということであると思うのです。
また、私がそれまで、小説は、「会話」が中心の「創作物」である、と考えていたことと、関係があるのかもしれません。
『夜明け前』に、まったく「会話が出てこない」という訳ではないのですが、むしろ、「説明」が多い――それは、紀行文と言ってもいいぐらい――小説です。
幕末の、山奥の日常生活の様子などが、事細かに、描かれています。それが、若いころの私には、「退屈」に感じられたのかもしれません。
しかも、文章自体が、すこし「固い表現」になっており、そのことも、この小説が「古臭い」ものに感じられ、「馴染む」ことが出来なかった、理由かもしれません。
◆ 「読書の醍醐味」
全体の分量からすれば、まだ、半分も、読み終えていないので、この先、どういうように、今の気持ちが変わっていくかは、分かりません。
しかし、――少なくとも、今の時点においてさえ――この小説を、「読み返して」よかったと思っています。
すべての小説が、そうだという訳でもないでしょうが、「いい小説」と言うものは、「価値ある小説」と言うものは、このような小説のことを言うのだと思います。
読むたびに、「新鮮な発見」があり、「文章自体をより味わう」ことが出来る。そういう小説こそ、「真の古典」というにふさわしい、と思います。
「真の古典」の地位を「与える」べきである、と考えます。
同じ本を、繰り返して、何度も読む。これが、「読書のコツ」のように感じます。また、「読書の醍醐味」である、と考えます。
そして、そういう「本」を、1冊でも、2冊でも、持つことが、人生を豊かにしてくれる。人生を、より充実したものにしてくれる。その人に、「深み」を加える。
そして、それこそが、「読書の楽しみ」である。そういう読書が出来たら、幸せな人生を送っている、ということが出来るのではないでしょうか。
そういう意味においても、一度手に取ってみて、「面白くない」と感じたら、しばらく期間をおいてから、再度、「挑戦」してみる。そういう、読書の方法を、若い人々には、特に、勧めたい。
もし、あなたが、読む始めた本が、「難しい」と感じて、途中で投げ出したとしても、5年後、10年後に、もう一度、その本を手に取って、読んでみられることを、勧めます。
そのときは、「スイスイ」と、読むことが出来ることを受け合います。それでも、「まだ、ダメなら」、もう何年か後に、再度挑戦してみてください。
そして、それがあなたにとって、重要な本であればあるほど、「繰り返し」読まれることを、勧めます。
※ 上で述べたことは、普通の読書のこと――いわゆる「専門書」と呼ばれる本を読むこと以外――を念頭において、書いたものです。どうしても、仕事などで読む必要がある、本などについては別のことである、というのは当然です。
(2015年11月日)