<正村 戦後史(56)>
ダレスによる「恫喝」で始まりました。しかし、日本の政府内部においても、この頃すでに、ソ連を除く片面講和の考えと、米軍の駐留継続という方向が決まりつつありました。
ダレスと吉田の最初の会談では、「物別れ」の終わりました。
その会談の後、ダレスは「日本は米ソいずれの陣営につくかを決定すべきである。アメリカは日本を破壊して撤退することもできる」と、非公式の会談で述べています。
また、「アメリカ軍の基地残留はどちらがいいだすのが得策か」とも、述べていました。
★ アメリカ軍の日本駐留が明確に規定された
【朝鮮戦争勃発により、アメリカ軍部はいっそう強く対日講和延期を要求した。日本を基地として自由に使える状態にしておく必要があるという観点からであった。
しかし、ダレスは、東京から帰ると、事態の急変にも関わらず対日平和条約は促進すべきでると主張して軍部の説得につとめ、さきの6月6日の平和条約をもとに改定案の作成を急いだ。
改定条約案は1950年10月に大統領の承認を受けた。改定案では中国代表権問題や日本人移民問題が消えた。
・第2次世界大戦以前においては、平地の少ない狭い国土に密度の高い急増する人口を抱えていることが日本の対外膨張政策の1つの要因と考えられていた。
アメリカが日本人移民を制限したことが日米関係を悪化させる一つの契機にもなった。第1次案に移民の項目があったのはそのためであろう。しかし、戦後は状況が変化しつつあった。
・改定案では、予備会議を開いて決議する方式が撤回され、関係国間の個別交渉で合意をとりつける方式に変更された。また、講和後のアメリカ軍の日本駐留が明確に規定されることになった。
・9月15日、ダレスは記者会見で「日本が希望するなら再軍備には制限を加えない」と言明した。
・ダレスは、このときから、以下の7原則を掲げて関係国との個別交渉を精力的に展開した。
(1) 締結国は、対日交戦国のうち、意見一致をみた基礎のうえで締結の意志ある国とする。
(2) 国連への日本の加盟を考慮する。
(3) 領土に関しては、琉球・小笠原はアメリカに信託統治とし、台湾・小島・南樺太・千島列島は米英ソ中の4か国が将来決定する(講和1年以内に未決定の場合は国連総会が決定)。
(4) 安全保障については、満足すべき取り決めができるまで、日本とアメリカおよびその他の国々の責任分担を継続する。
(5) 新通商条約締結まで、日本は最恵国待遇を受ける。
(6) 締結国は戦争によって生じた賠償要求は放棄する。
(7) 要求に関する紛争は特別中立裁判所で解決する。
これらの諸原則は、主要部分がサンフランシスコ講和会議の基礎となる米英最終草案に盛られるにことになった。ただし、台湾以下の領土については、最終草案では日本の放棄だけが規定された。
・1950年秋から約1年にわたる期間に、ダレスは、ソ連と中国を別として、主要な参戦国との意見調整をすすめ、大部分の合意意をとりつけることに成功した。
・英連邦諸国は、すでに1950年5月1日、ロンドンにおける英連邦運営委員会で対日講和問題を討議したさいに、過酷な報復的条項をいれないこと、軍事基地問題はアメリカに決定に委ねることなどを決めていた。しかし、なお対日警戒心が強く、講和後の日本の軍事的復活を恐れる意見が有力であった。
・そのためアメリカは「太平洋安全保障条約」を提案したが、関係国の意見がまとまらず、実現しなかった。代わりにアメリカは、アメリカとフィリピンとのあいだで安全保障条約と、オーストラリアおよびニュージーランドとの安全保障条約を、個別に締結することにした。
アメリカ・フィリピンの相互防衛条約はサンフランシスコ平和条約調印直前の1951年8月30日に、またアメリカ・オーストラリア・ニュージーランド3か国の太平洋安全保障条約(アンザス条約)は同年9月1日に、それぞれ調印された。
・1951年1月25日、ダレスは大統領特使として2度目の訪日を行い、吉田と3回にわたって会談した。ダレスは日本の再軍備を強く要求した。会談後、ダレスは「日本政府は講和後のアメリカ軍の駐留を歓迎している」と語り、吉田もそれを確認する声明を発表した。】
★ 明らかな矛盾
「アメリカは日本を破壊して撤退することもできる」
「アメリカ軍の基地残留はどちらがいいだすのが得策か」
と言うダレスの「脅し」ともとれるような発言は、看過できないと、思います。
それは、「ポツダム宣言」に違反する発言です。ダレスのこの発言は、いくら非公式の会談でのこととはいえ、許されるものではありません。
しかし、吉田は、ダレスに反論しませんでした。ダレスを「利用」し、また、ダレスに「利用」されました。
ダレスの「日本の再軍備を強く要求」ということと、「講和後のアメリカ軍の駐留」の要求は、明らかに矛盾しますし、「ポツダム宣言」にも違反するものです。
しかし、時代は、米国が「一強」です。どの国も、米国の意向に逆らうことなどできません。「ポツダム宣言」にも違反する、と反論した国はありませんでした。
※ このあとも、もうしばらくの間、条約締結の「舞台裏」を観ていきます。
(2015年11月29日)
ダレスによる「恫喝」で始まりました。しかし、日本の政府内部においても、この頃すでに、ソ連を除く片面講和の考えと、米軍の駐留継続という方向が決まりつつありました。
ダレスと吉田の最初の会談では、「物別れ」の終わりました。
その会談の後、ダレスは「日本は米ソいずれの陣営につくかを決定すべきである。アメリカは日本を破壊して撤退することもできる」と、非公式の会談で述べています。
また、「アメリカ軍の基地残留はどちらがいいだすのが得策か」とも、述べていました。
★ アメリカ軍の日本駐留が明確に規定された
【朝鮮戦争勃発により、アメリカ軍部はいっそう強く対日講和延期を要求した。日本を基地として自由に使える状態にしておく必要があるという観点からであった。
しかし、ダレスは、東京から帰ると、事態の急変にも関わらず対日平和条約は促進すべきでると主張して軍部の説得につとめ、さきの6月6日の平和条約をもとに改定案の作成を急いだ。
改定条約案は1950年10月に大統領の承認を受けた。改定案では中国代表権問題や日本人移民問題が消えた。
・第2次世界大戦以前においては、平地の少ない狭い国土に密度の高い急増する人口を抱えていることが日本の対外膨張政策の1つの要因と考えられていた。
アメリカが日本人移民を制限したことが日米関係を悪化させる一つの契機にもなった。第1次案に移民の項目があったのはそのためであろう。しかし、戦後は状況が変化しつつあった。
・改定案では、予備会議を開いて決議する方式が撤回され、関係国間の個別交渉で合意をとりつける方式に変更された。また、講和後のアメリカ軍の日本駐留が明確に規定されることになった。
・9月15日、ダレスは記者会見で「日本が希望するなら再軍備には制限を加えない」と言明した。
・ダレスは、このときから、以下の7原則を掲げて関係国との個別交渉を精力的に展開した。
(1) 締結国は、対日交戦国のうち、意見一致をみた基礎のうえで締結の意志ある国とする。
(2) 国連への日本の加盟を考慮する。
(3) 領土に関しては、琉球・小笠原はアメリカに信託統治とし、台湾・小島・南樺太・千島列島は米英ソ中の4か国が将来決定する(講和1年以内に未決定の場合は国連総会が決定)。
(4) 安全保障については、満足すべき取り決めができるまで、日本とアメリカおよびその他の国々の責任分担を継続する。
(5) 新通商条約締結まで、日本は最恵国待遇を受ける。
(6) 締結国は戦争によって生じた賠償要求は放棄する。
(7) 要求に関する紛争は特別中立裁判所で解決する。
これらの諸原則は、主要部分がサンフランシスコ講和会議の基礎となる米英最終草案に盛られるにことになった。ただし、台湾以下の領土については、最終草案では日本の放棄だけが規定された。
・1950年秋から約1年にわたる期間に、ダレスは、ソ連と中国を別として、主要な参戦国との意見調整をすすめ、大部分の合意意をとりつけることに成功した。
・英連邦諸国は、すでに1950年5月1日、ロンドンにおける英連邦運営委員会で対日講和問題を討議したさいに、過酷な報復的条項をいれないこと、軍事基地問題はアメリカに決定に委ねることなどを決めていた。しかし、なお対日警戒心が強く、講和後の日本の軍事的復活を恐れる意見が有力であった。
・そのためアメリカは「太平洋安全保障条約」を提案したが、関係国の意見がまとまらず、実現しなかった。代わりにアメリカは、アメリカとフィリピンとのあいだで安全保障条約と、オーストラリアおよびニュージーランドとの安全保障条約を、個別に締結することにした。
アメリカ・フィリピンの相互防衛条約はサンフランシスコ平和条約調印直前の1951年8月30日に、またアメリカ・オーストラリア・ニュージーランド3か国の太平洋安全保障条約(アンザス条約)は同年9月1日に、それぞれ調印された。
・1951年1月25日、ダレスは大統領特使として2度目の訪日を行い、吉田と3回にわたって会談した。ダレスは日本の再軍備を強く要求した。会談後、ダレスは「日本政府は講和後のアメリカ軍の駐留を歓迎している」と語り、吉田もそれを確認する声明を発表した。】
★ 明らかな矛盾
「アメリカは日本を破壊して撤退することもできる」
「アメリカ軍の基地残留はどちらがいいだすのが得策か」
と言うダレスの「脅し」ともとれるような発言は、看過できないと、思います。
それは、「ポツダム宣言」に違反する発言です。ダレスのこの発言は、いくら非公式の会談でのこととはいえ、許されるものではありません。
しかし、吉田は、ダレスに反論しませんでした。ダレスを「利用」し、また、ダレスに「利用」されました。
ダレスの「日本の再軍備を強く要求」ということと、「講和後のアメリカ軍の駐留」の要求は、明らかに矛盾しますし、「ポツダム宣言」にも違反するものです。
しかし、時代は、米国が「一強」です。どの国も、米国の意向に逆らうことなどできません。「ポツダム宣言」にも違反する、と反論した国はありませんでした。
※ このあとも、もうしばらくの間、条約締結の「舞台裏」を観ていきます。
(2015年11月29日)
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