<正村:戦後史 (39)>
「ロイヤル演説」(上)です。アメリカの陸軍長官のロイヤルが、行った演説。「日本占領は、我々にとって予想以上の負担になっている」と述べた演説を取り上げます。194
6年の「演説」です。
★ 日本占領は負担
≪アメリカ軍の日本占領に対する抵抗は少なく、非軍事化・民主化を目的とする改革も順調に進んだ。アメリカの政府と軍の中では、早くも1946~1947年に対日講和早期実現を目指す動きが起こった
・アメリカの政策当局の関心は、独立後の日本がアメリカの強制した改革でつくられた民主的体制を維持しつづけるかどうか、アメリカにたいして友好な国家でありつづけるかどうかという点にあった。
・とくに日本の非武装という特殊な状況を占領終結後においてどのような方法で維持するかが問題であった。
・初期には米英ソ中4か国による日本非武装条約と査察軍による25年間の監視といった案も作れた。マッカーサーは、それは占領の事実上の継続に近いとして反対した。
1947年3月17日、マッカーサーは、、占領後初めて在日外国人記者と会見し、対日講和条約の機会は熟していると語った。マッカーサーは、日本に小規模の軍隊を認めよという意見に反対し、国際連合によるコントロールを主張した。2・1ゼネスト計画中止後1か月半、トルーマン・ドクトリン発表後数日という時点である。
・マッカーサー発言を契機に対日講和の機運が高まった。アメリカ政府の働きかけで極東委員会11か国のうちソ連を除く10か国が対日講和促進に参加する意向を示した。アメリカは対日講和の内容は極東委員会11か国の三分の二の多数決で決定しようと主張した。
ソ連は、米英ソ中の4大国の予備討議と拒否権を要求した。蔣政権の中国もソ連の圧力でアメリカ方式に反対した。1947年8月にサンフランシスコで講和会議開催という予定まで立てられたが、順次延期され、1947年8月中旬に立ち消えになった。
・片山内閣の外相芦田は、1947年7月末、外務省のまとめた講和に関する日本側の要望書をGHQの担当者に渡そうとした。そこには、講和後の日本の国連加盟、日本の警察力の強化などが含まれていた。GHQ側は受領を拒否した。
芦田は、同年9月、この要望書に若干の修正を加えた私的メモランダムを一時帰国するアメリカ第8軍司令官アイケルバーガーに託した。そこでは、日本の安全保障はアメリカ軍に依存することとし、日本は基地を提供するという案が初めて示された。
・ワシントンの統合参謀本部や国務省のケナンなどの政策企画担当者のあいだでは、冷戦に対処するためにアメリカ軍の日本駐在を長期化させるという考えが強まっていた。早期の講和調印と占領終結という可能性は消滅した。
・1948年1月6日、ロイヤル陸軍長官が、サンフランシスコのコモンウェルズ・クラブでの演説でアメリカの対日政策を論じた。ロイヤルは「日本占領は、ドイツ占領と同様に我々にとって予想以上の負担になっている」と語り、以下の考え方を示した。
・ロイヤルによれば、アメリカの占領政策の目的は、いかに日本を非軍事化するか、軍国主義の復活の可能性をいかに除去するかという点におかれ、この観点から、農地改革、財閥解体、経済力集中排除政策などが実施された。しかし、経済集中排除政策や賠償計画などは日本の工業に過度の打撃を与える危険を含んでおり、修正が必要である。
・日本はカリフォルニアの面積ほどの国土に7000万~8000万もの人口を擁しており、農民や小商店員や職人だけの国としては存立できない。工業を奨励することが必要である。非軍事化という目的と日本を経済力のある自立した国家にするという目的のあいだにはジレンマがあり、明確な線を引くのは困難である。
しかし、極東においても今後起こりうると予想される新しい全体主義の脅威にたいする防塞の役割を日本に担ってもらうため、日本を、みずから十分に確信を持てる民主国家として、また十分に自活できる強さと安定性をもった国家として建設するという目的を重視する必要がある、とロイヤルは述べた。
・ロイヤルは、冷戦のなかでのアメリカの有力な協力者として日本を位置づけなおし、その観点から日本の経済的再建が再工業化の路線以外にありえないことを認識しなければならないと強調したのである。≫
★ 1946~1947年の時点で、「対日講和」が論題に
芦田の「私案」が、いかなる経緯で作られたのかは、知りませんが、――こういう申し出を日本が行ったということは――「日本の安全保障はアメリカ軍に依存することとし、日本は基地を提供するという案」が米国に提示されたというのは、「初耳」です。
日米安保条約の全文に示された――旧安保」のことですが――「・・・よつて、日本国は平和条約が日本国とアメリカ合衆国の間に効力を生ずるのと同時に効力を生ずべきアメリカ合衆国との安全保障条約を希望する」と言う文言は、まさに日本自らが「希望していた」ことであるということになります。
それはそうとして、早くも、1946~1947年の時点で、「対日講和」が論題になっていたことも、私にとっては、「新情報」です。
この講和条約については、このシリ―ズのあとに、読んでいく予定にしていますが、今日の箇所を改めて読んでみて、――講和条約に関する本――次回のシリーズにする計画を勧める気持ちが、いっそう強くなってきました。
※ 明日は、「ロイヤル演説」(下)を予定しています。
なお、新しくこのサイトを立ち上げたので、「このシリーズ」以外の「本の紹介」も、順次あいだに、はさんでいきますので、その点もご了解を願います。
他には、「ごく短い文章の「抜書き」も、予定しています。
(2015年11月9日)
「ロイヤル演説」(上)です。アメリカの陸軍長官のロイヤルが、行った演説。「日本占領は、我々にとって予想以上の負担になっている」と述べた演説を取り上げます。194
6年の「演説」です。
★ 日本占領は負担
≪アメリカ軍の日本占領に対する抵抗は少なく、非軍事化・民主化を目的とする改革も順調に進んだ。アメリカの政府と軍の中では、早くも1946~1947年に対日講和早期実現を目指す動きが起こった
・アメリカの政策当局の関心は、独立後の日本がアメリカの強制した改革でつくられた民主的体制を維持しつづけるかどうか、アメリカにたいして友好な国家でありつづけるかどうかという点にあった。
・とくに日本の非武装という特殊な状況を占領終結後においてどのような方法で維持するかが問題であった。
・初期には米英ソ中4か国による日本非武装条約と査察軍による25年間の監視といった案も作れた。マッカーサーは、それは占領の事実上の継続に近いとして反対した。
1947年3月17日、マッカーサーは、、占領後初めて在日外国人記者と会見し、対日講和条約の機会は熟していると語った。マッカーサーは、日本に小規模の軍隊を認めよという意見に反対し、国際連合によるコントロールを主張した。2・1ゼネスト計画中止後1か月半、トルーマン・ドクトリン発表後数日という時点である。
・マッカーサー発言を契機に対日講和の機運が高まった。アメリカ政府の働きかけで極東委員会11か国のうちソ連を除く10か国が対日講和促進に参加する意向を示した。アメリカは対日講和の内容は極東委員会11か国の三分の二の多数決で決定しようと主張した。
ソ連は、米英ソ中の4大国の予備討議と拒否権を要求した。蔣政権の中国もソ連の圧力でアメリカ方式に反対した。1947年8月にサンフランシスコで講和会議開催という予定まで立てられたが、順次延期され、1947年8月中旬に立ち消えになった。
・片山内閣の外相芦田は、1947年7月末、外務省のまとめた講和に関する日本側の要望書をGHQの担当者に渡そうとした。そこには、講和後の日本の国連加盟、日本の警察力の強化などが含まれていた。GHQ側は受領を拒否した。
芦田は、同年9月、この要望書に若干の修正を加えた私的メモランダムを一時帰国するアメリカ第8軍司令官アイケルバーガーに託した。そこでは、日本の安全保障はアメリカ軍に依存することとし、日本は基地を提供するという案が初めて示された。
・ワシントンの統合参謀本部や国務省のケナンなどの政策企画担当者のあいだでは、冷戦に対処するためにアメリカ軍の日本駐在を長期化させるという考えが強まっていた。早期の講和調印と占領終結という可能性は消滅した。
・1948年1月6日、ロイヤル陸軍長官が、サンフランシスコのコモンウェルズ・クラブでの演説でアメリカの対日政策を論じた。ロイヤルは「日本占領は、ドイツ占領と同様に我々にとって予想以上の負担になっている」と語り、以下の考え方を示した。
・ロイヤルによれば、アメリカの占領政策の目的は、いかに日本を非軍事化するか、軍国主義の復活の可能性をいかに除去するかという点におかれ、この観点から、農地改革、財閥解体、経済力集中排除政策などが実施された。しかし、経済集中排除政策や賠償計画などは日本の工業に過度の打撃を与える危険を含んでおり、修正が必要である。
・日本はカリフォルニアの面積ほどの国土に7000万~8000万もの人口を擁しており、農民や小商店員や職人だけの国としては存立できない。工業を奨励することが必要である。非軍事化という目的と日本を経済力のある自立した国家にするという目的のあいだにはジレンマがあり、明確な線を引くのは困難である。
しかし、極東においても今後起こりうると予想される新しい全体主義の脅威にたいする防塞の役割を日本に担ってもらうため、日本を、みずから十分に確信を持てる民主国家として、また十分に自活できる強さと安定性をもった国家として建設するという目的を重視する必要がある、とロイヤルは述べた。
・ロイヤルは、冷戦のなかでのアメリカの有力な協力者として日本を位置づけなおし、その観点から日本の経済的再建が再工業化の路線以外にありえないことを認識しなければならないと強調したのである。≫
★ 1946~1947年の時点で、「対日講和」が論題に
芦田の「私案」が、いかなる経緯で作られたのかは、知りませんが、――こういう申し出を日本が行ったということは――「日本の安全保障はアメリカ軍に依存することとし、日本は基地を提供するという案」が米国に提示されたというのは、「初耳」です。
日米安保条約の全文に示された――旧安保」のことですが――「・・・よつて、日本国は平和条約が日本国とアメリカ合衆国の間に効力を生ずるのと同時に効力を生ずべきアメリカ合衆国との安全保障条約を希望する」と言う文言は、まさに日本自らが「希望していた」ことであるということになります。
それはそうとして、早くも、1946~1947年の時点で、「対日講和」が論題になっていたことも、私にとっては、「新情報」です。
この講和条約については、このシリ―ズのあとに、読んでいく予定にしていますが、今日の箇所を改めて読んでみて、――講和条約に関する本――次回のシリーズにする計画を勧める気持ちが、いっそう強くなってきました。
※ 明日は、「ロイヤル演説」(下)を予定しています。
なお、新しくこのサイトを立ち上げたので、「このシリーズ」以外の「本の紹介」も、順次あいだに、はさんでいきますので、その点もご了解を願います。
他には、「ごく短い文章の「抜書き」も、予定しています。
(2015年11月9日)
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