<糸川 「前例がないからやってみよう」 (1)>
はたして、日本人には理解が不能?という「決めつけ」は、正しいのでしょうか。
日本人には、科学あるいは科学的精神とは何か、ということを理解することが出来るのでしょうか。
現代は、科学万能の時代であるように思えます。科学がなくては、始まらない、という雰囲気が満ち満ちています。
ですが、日本人に、そもそも、科学を理解することは、可能なのでしょうか。
昨年以来、日本中を騒がせた「STAP細胞」事件が、「一段落」したようです。
この事件ほど、日本人の科学あるいは科学的精神への理解がためされた「事件」は、ないように思えます。
事件は一段落しましたが、果たして、多くの日本人が大騒ぎをしたほど、日本人の科学への、あるいは、科学的精神の進歩に貢献することになったのでしょうか。
そもそも、「「STAP細胞」事件を、騒ぎ立てた多くの国民は、科学あるいは科学的精神という観点から、この事件を批判していたのでしょうか。
この「シリーズ」では、科学あるいは科学的精神というようなものについての「文章」を読んでいきたい、と考えています。
★ 「システム」とは何か
【「スパイ大作戦」について、これまでいろいろ触れてきたが、では、この番組のプロセシングとしてのシステムというのは、一体、どんな思想が根底になっているのだろうか。
インポシブルという意味は、いうなれば常識とか、いままでの考え方とか、これまでの自分たちの持っている組み合わせではどうにもならないということである。
それをポシブル、つまり可能にするためにはどうしても、これまでとは違った方法をとらざるを得ないということにほかならない。
これは、別の言葉で言うと、反体制の思想が内在していることを意味している。反逆の精神が半分を占めているということである。
・もしも、そこに反逆の精神がなかったならば、どうなるか。きのうまでのものが、あしたも、あさってもそのままだというような発想であったら、新しいものなど何一つとして生まれてくるわけはないのである。
システムという発想は、まことに意外なことに、50%は反逆の精神なのであって、その50%を構成しているものはなにかというと、”他人は自分とは違う”という発想によるものである。
・「スパイ大作戦」はアメリカで作られたテレビ映画で、システムという言葉もアメリカ人がつくりだしたアメリカ語である。英語ではなく、アメリカ語なのである。そのアメリカ人が、システムという言葉をつくりだした背景には、じつは二つの問題がある。
・一つは、アメリカ建国当初の事情だが、周知のように、アメリカという国は、カリフォルニア州などはスペインの植民地であった。東海岸のボストン、ニューヨークはイギリスの植民地であった。かなり前に、やはりテレビ映画に「怪傑ゾロ」というのがあった。チチチと「Z」のマークを切るあのゾロの物語の舞台が、つまり、カリフォルニアで、ここでは法律用語、公用語はみなスペイン語である。
・このようにアメリカは建国のときから、東海岸と西海岸とでは言葉が違っていたわけであり、しかも、時間も3時間くらいの時差がある。だから電話が初めて開通した時など、カリフォルニアの人間がうっかり電話をかけると、相手のほうはとっくに勤務時間を過ぎていたりしたものだったという。
・3時間も時差があることから。他人と自分というものが、時間も違えば話す言葉も違うものだということでアメリカでは、それが建国以来のひとつの発想になっていた。
(これ以後は、章が変わる)
・こうなると、たとえば、ニューヨークの人がはるばる馬で大陸を横断してロスアンゼルスの友達を尋ねたときなど、時間も言葉も違う町なのだから、自分の目的とする家をすぐ尋ねあてるためには、番地のつけ方なども、よほど考えてつけておかなくてはならない。
アメリカの町は、右側が偶数番号だったら、左側はみんな奇数番号ということになっており、いわゆる遇数ナンバーと奇数ナンバーで全部両側に分かれている。・・・だれでも、ちゃんとビルを探し出せるシステムになっている。
・反対にロスアンゼルスの人が、ニューヨークに行っても、同じように分かるようになっていることはもちろんである。ニューヨーク5番街の500と書いてあったら、これは偶数番号であるから、右側で、00であるから角の家だとすぐわかる。
・しかし、東京はどうであろうか。以前は00区××0丁目0×番地であったのが、東京オリンピックの時に、誰が考えたものか知らないが、0の00の××と数字を三つのブロックに分けたのである。いったい、どういうコンセプトでこういう番地のつけ方をしたのか、家の発見の困難さというのはとくかく、すこしもかわってはいない。
・昭和通りのような広いところでは、どっちへ渡ろうとしても、番地が規則正しくなければ骨が折れる話である。東京駅の真ん中に丸ビルという日本中に知られたビルがあるが、では、丸ビルは何番地かと聞いても、誰ひとりわからない。
・六本木にあるわれわれのオフィスのスタービルには、六本木の4の1の13という数字がついているが、何も意味がない。こんな数字を人に教えても、六本木のスタービルを発見するのに、まるで役にたたない。
こういう意味のない数字をつけて何とも思っていない日本人はおかしい。何とも思わない人間もおかしいのである。この程度の番地しかつけられない人しかいないということが、そもそも、おかしいと思うのである。
つまり、これこそ、システムという発想が最初から全くないということにはほかならない。】(糸川英夫 『前例がないからやってみよう』 カッパ・ブックス)
★ 「システム」の理解
米国のような番地のつけ方は、「家の並び」がそのようになっているということを、前提にしていると思います。
つまりは、家を建てる前から、全体としての構想が「システム」化されているので、「そのような」番地のつけ方が、可能になる、のだと思います。
日本のように、「ごちゃごちゃ」とたて込み、入り組んだ「統一性のない」街のつくりでは到底望むべくもない、と感じます。
そのことは、もともと、「システム」という考え方が、日本に存在しなかった。
戦争でほとんどの「都市」が焼かれて、「更地」になったのですから、「新しい街」を作り直す機会は、ありました。
それでも、戦後の「ドサクサ」が、それを許さなかった、のでしょうか。私には、そもそも、そのような「発想」そのものがなかった、と思えます。
住所(番地のつけ方)を例に引いて、説明するという発想そのものが、「科学的精神」の現れであるように、感じます。
糸川博士の文章は、語り口が、「やさしい」ので分かりやすい、ということも特徴だと思います。
それでいて、「ツボ」をはずさないので、呼んでいるうちに自然と理解が深まっていくのが、自分で実感できます。
しばらく間は、糸川英夫博士の本を読んでいくことにしたいと思っています。
(2015年11月3日)
はたして、日本人には理解が不能?という「決めつけ」は、正しいのでしょうか。
日本人には、科学あるいは科学的精神とは何か、ということを理解することが出来るのでしょうか。
現代は、科学万能の時代であるように思えます。科学がなくては、始まらない、という雰囲気が満ち満ちています。
ですが、日本人に、そもそも、科学を理解することは、可能なのでしょうか。
昨年以来、日本中を騒がせた「STAP細胞」事件が、「一段落」したようです。
この事件ほど、日本人の科学あるいは科学的精神への理解がためされた「事件」は、ないように思えます。
事件は一段落しましたが、果たして、多くの日本人が大騒ぎをしたほど、日本人の科学への、あるいは、科学的精神の進歩に貢献することになったのでしょうか。
そもそも、「「STAP細胞」事件を、騒ぎ立てた多くの国民は、科学あるいは科学的精神という観点から、この事件を批判していたのでしょうか。
この「シリーズ」では、科学あるいは科学的精神というようなものについての「文章」を読んでいきたい、と考えています。
★ 「システム」とは何か
【「スパイ大作戦」について、これまでいろいろ触れてきたが、では、この番組のプロセシングとしてのシステムというのは、一体、どんな思想が根底になっているのだろうか。
インポシブルという意味は、いうなれば常識とか、いままでの考え方とか、これまでの自分たちの持っている組み合わせではどうにもならないということである。
それをポシブル、つまり可能にするためにはどうしても、これまでとは違った方法をとらざるを得ないということにほかならない。
これは、別の言葉で言うと、反体制の思想が内在していることを意味している。反逆の精神が半分を占めているということである。
・もしも、そこに反逆の精神がなかったならば、どうなるか。きのうまでのものが、あしたも、あさってもそのままだというような発想であったら、新しいものなど何一つとして生まれてくるわけはないのである。
システムという発想は、まことに意外なことに、50%は反逆の精神なのであって、その50%を構成しているものはなにかというと、”他人は自分とは違う”という発想によるものである。
・「スパイ大作戦」はアメリカで作られたテレビ映画で、システムという言葉もアメリカ人がつくりだしたアメリカ語である。英語ではなく、アメリカ語なのである。そのアメリカ人が、システムという言葉をつくりだした背景には、じつは二つの問題がある。
・一つは、アメリカ建国当初の事情だが、周知のように、アメリカという国は、カリフォルニア州などはスペインの植民地であった。東海岸のボストン、ニューヨークはイギリスの植民地であった。かなり前に、やはりテレビ映画に「怪傑ゾロ」というのがあった。チチチと「Z」のマークを切るあのゾロの物語の舞台が、つまり、カリフォルニアで、ここでは法律用語、公用語はみなスペイン語である。
・このようにアメリカは建国のときから、東海岸と西海岸とでは言葉が違っていたわけであり、しかも、時間も3時間くらいの時差がある。だから電話が初めて開通した時など、カリフォルニアの人間がうっかり電話をかけると、相手のほうはとっくに勤務時間を過ぎていたりしたものだったという。
・3時間も時差があることから。他人と自分というものが、時間も違えば話す言葉も違うものだということでアメリカでは、それが建国以来のひとつの発想になっていた。
(これ以後は、章が変わる)
・こうなると、たとえば、ニューヨークの人がはるばる馬で大陸を横断してロスアンゼルスの友達を尋ねたときなど、時間も言葉も違う町なのだから、自分の目的とする家をすぐ尋ねあてるためには、番地のつけ方なども、よほど考えてつけておかなくてはならない。
アメリカの町は、右側が偶数番号だったら、左側はみんな奇数番号ということになっており、いわゆる遇数ナンバーと奇数ナンバーで全部両側に分かれている。・・・だれでも、ちゃんとビルを探し出せるシステムになっている。
・反対にロスアンゼルスの人が、ニューヨークに行っても、同じように分かるようになっていることはもちろんである。ニューヨーク5番街の500と書いてあったら、これは偶数番号であるから、右側で、00であるから角の家だとすぐわかる。
・しかし、東京はどうであろうか。以前は00区××0丁目0×番地であったのが、東京オリンピックの時に、誰が考えたものか知らないが、0の00の××と数字を三つのブロックに分けたのである。いったい、どういうコンセプトでこういう番地のつけ方をしたのか、家の発見の困難さというのはとくかく、すこしもかわってはいない。
・昭和通りのような広いところでは、どっちへ渡ろうとしても、番地が規則正しくなければ骨が折れる話である。東京駅の真ん中に丸ビルという日本中に知られたビルがあるが、では、丸ビルは何番地かと聞いても、誰ひとりわからない。
・六本木にあるわれわれのオフィスのスタービルには、六本木の4の1の13という数字がついているが、何も意味がない。こんな数字を人に教えても、六本木のスタービルを発見するのに、まるで役にたたない。
こういう意味のない数字をつけて何とも思っていない日本人はおかしい。何とも思わない人間もおかしいのである。この程度の番地しかつけられない人しかいないということが、そもそも、おかしいと思うのである。
つまり、これこそ、システムという発想が最初から全くないということにはほかならない。】(糸川英夫 『前例がないからやってみよう』 カッパ・ブックス)
★ 「システム」の理解
米国のような番地のつけ方は、「家の並び」がそのようになっているということを、前提にしていると思います。
つまりは、家を建てる前から、全体としての構想が「システム」化されているので、「そのような」番地のつけ方が、可能になる、のだと思います。
日本のように、「ごちゃごちゃ」とたて込み、入り組んだ「統一性のない」街のつくりでは到底望むべくもない、と感じます。
そのことは、もともと、「システム」という考え方が、日本に存在しなかった。
戦争でほとんどの「都市」が焼かれて、「更地」になったのですから、「新しい街」を作り直す機会は、ありました。
それでも、戦後の「ドサクサ」が、それを許さなかった、のでしょうか。私には、そもそも、そのような「発想」そのものがなかった、と思えます。
住所(番地のつけ方)を例に引いて、説明するという発想そのものが、「科学的精神」の現れであるように、感じます。
糸川博士の文章は、語り口が、「やさしい」ので分かりやすい、ということも特徴だと思います。
それでいて、「ツボ」をはずさないので、呼んでいるうちに自然と理解が深まっていくのが、自分で実感できます。
しばらく間は、糸川英夫博士の本を読んでいくことにしたいと思っています。
(2015年11月3日)
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