<正村 戦後史 (42)>
下山事件・三鷹事件・松川事件は、今日にいたるまで謎に包まれた事件として残されています。この事件をきっかけとして、国鉄労組や共産党は、「いわれなき誹謗中傷」を受
け、孤立させられる結果になりました。
この事件が解明されない限り、「戦後」は終わったというにはならない。
▲ 孤立させられる「国鉄労組や共産党の運動」
≪下山事件・三鷹事件・松川事件は今日にいたるまで謎に包まれた事件として残されている。
・今日からみてこれらの事件が労働組合や共産党の計画的犯罪でなかったことは確定的といってよい。反対に、下山事件や松川事件に関しアメリカの諜報謀略機関が共産党の運動を挫折させるために仕掛けたのではないかという意見がある。
決定的な証拠や証言は得られていないが、その疑問も消えてはいない。結果として、これらの事件は、国鉄労組や共産党の運動を国民のなかでいっそう孤立化させ、解雇反対闘争に打撃を与えた。
吉田内閣の閣僚たちは、これらの事件の直後に、共産党系の運動による計画的犯行であることあることが確定的であるかのごとき予断をもった発言を繰り返し、世論を誘導した。誰の仕業であったにせよ、これらの犯行によって多数の人命が失われ、また、多数の無実の人間がその生活を権力によって破壊された。
この時期の共産党は、いかなる意味でもこの種の破壊行為を正当化する方針を持っていなかった。しかし、これらの事件が共産党系の運動によって仕組まれたとする先入見にもとづく操作が行われ、またそれをテコとした世論操作がおこなわれたとき、共産党の立場は弱いものであった。
状況によっては議会制を無視し、武力によって権力を奪取することも辞さないとする共産党の立場は、俗に暴力革命論と呼ばれている。一般には、それは「目的のためには手段を選ばない」と理解された。
・下山事件・三鷹事件・松川事件の3事件の起きた翌年の1950年1月、日本共産党は、コミンフォルムからその平和革命路線は誤りだとする厳しい批判を受け、やがて武力革命路線を採用した。
こうした路線転換は、三鷹事件・松川事件を共産党の破壊行為と決めてかかる世論を打破するうえで障害になった。それは、これらの事件の被告たちの公判闘争に対する国民の支持を獲得するうえでも不利に作用した。
1949年の時点のおいて、共産党の指導下にある労動運動が、解雇反対その他の目標を掲げて激発する様相を呈し、蒼然たる空気をつくりだしていたことも事実であった。3つの事件は、そうした空気のなかで共産党に結びつけて解釈され、宣伝された。
・・・・
・6月15日、日本製鉄所の広島工場で解雇反対闘争中の労働組合側3000人が工場を占拠し、退去を求めた警察官と乱闘し多数の負傷者と逮捕者を出した。
6月17日、東芝加茂工場(新潟)で労働組合員と警官隊の衝突が起こった。6月30日、福島県平市で、駅前に設置された共産党の掲示板を警察が撤去しようとした(福島県駐在の米軍の指示によるといわれる)ため、共産党員などが平警察署に押しかけ、最後には留置場から逮捕者を奪還したりした。
・・・・
・占領軍の強固な反共の指針、保守勢力が多数を占める政情勢、それらを背景とする警察や検察の強力な介入、混乱を脱却して企業における指導権を掌握しつつあった経営者側の強固な体制、そして労働運動そのものの分裂あるいは分解の進行が、全て共産党系の運動に不利に作用した、
対抗するためには、共産党員たちは地域の勢力を動員して強い抵抗あるいは抗議の行動を起こしたが、それは事件を頻発させ、保守勢力による反共宣伝に利用される材料をつくった。
・解雇の対象になった労働者の打撃は深刻であったが、ドッジ・ラインによるインフレ収束は大多数の国民に安心感をもたらした。戦後の改革と復興という現実を前提として、腰を据えて努力を積み重ねていけるような落ち着いた生活のできることを多数派の国民は望んだのであった。
強い闘争形態の提案や激しい行動様式の展開は、こうした空気ななかでは成功する可能性が小さかった。結果として、この時期の解雇反対闘争はほとんどすべてが敗北に終わった。≫
▲ 「いわれなき中傷」
今回で、「下山事件・三鷹事件・松川事件」に関する内容は、終わりです。
次回から、朝鮮戦争、日本の再軍備、安保条約と読みすすんでいきます。
昨日の記事でも書きましたが、共産党や共産主義思想に対する「漠然とした不審感」は、この頃に頻発した事件で、政権や政権党が共産党や、共産党員らに「いわれなき中傷」を投げかけ、それを国民に宣伝した結果、お子てきたことです。
もちろん、戦前に「こうした中傷」が行われたことも、見落とすわけにはいきませんが。
しかし、戦前の場合は、ほとんど表面に出てくるまえに、「その芽」を摘み取られてしまいましたから、こうした「いわれなき差別的感情」が固定化したのは、この三事件の影響が大きかった、ということが出来るでしょう。
(2015年11月12日)
下山事件・三鷹事件・松川事件は、今日にいたるまで謎に包まれた事件として残されています。この事件をきっかけとして、国鉄労組や共産党は、「いわれなき誹謗中傷」を受
け、孤立させられる結果になりました。
この事件が解明されない限り、「戦後」は終わったというにはならない。
▲ 孤立させられる「国鉄労組や共産党の運動」
≪下山事件・三鷹事件・松川事件は今日にいたるまで謎に包まれた事件として残されている。
・今日からみてこれらの事件が労働組合や共産党の計画的犯罪でなかったことは確定的といってよい。反対に、下山事件や松川事件に関しアメリカの諜報謀略機関が共産党の運動を挫折させるために仕掛けたのではないかという意見がある。
決定的な証拠や証言は得られていないが、その疑問も消えてはいない。結果として、これらの事件は、国鉄労組や共産党の運動を国民のなかでいっそう孤立化させ、解雇反対闘争に打撃を与えた。
吉田内閣の閣僚たちは、これらの事件の直後に、共産党系の運動による計画的犯行であることあることが確定的であるかのごとき予断をもった発言を繰り返し、世論を誘導した。誰の仕業であったにせよ、これらの犯行によって多数の人命が失われ、また、多数の無実の人間がその生活を権力によって破壊された。
この時期の共産党は、いかなる意味でもこの種の破壊行為を正当化する方針を持っていなかった。しかし、これらの事件が共産党系の運動によって仕組まれたとする先入見にもとづく操作が行われ、またそれをテコとした世論操作がおこなわれたとき、共産党の立場は弱いものであった。
状況によっては議会制を無視し、武力によって権力を奪取することも辞さないとする共産党の立場は、俗に暴力革命論と呼ばれている。一般には、それは「目的のためには手段を選ばない」と理解された。
・下山事件・三鷹事件・松川事件の3事件の起きた翌年の1950年1月、日本共産党は、コミンフォルムからその平和革命路線は誤りだとする厳しい批判を受け、やがて武力革命路線を採用した。
こうした路線転換は、三鷹事件・松川事件を共産党の破壊行為と決めてかかる世論を打破するうえで障害になった。それは、これらの事件の被告たちの公判闘争に対する国民の支持を獲得するうえでも不利に作用した。
1949年の時点のおいて、共産党の指導下にある労動運動が、解雇反対その他の目標を掲げて激発する様相を呈し、蒼然たる空気をつくりだしていたことも事実であった。3つの事件は、そうした空気のなかで共産党に結びつけて解釈され、宣伝された。
・・・・
・6月15日、日本製鉄所の広島工場で解雇反対闘争中の労働組合側3000人が工場を占拠し、退去を求めた警察官と乱闘し多数の負傷者と逮捕者を出した。
6月17日、東芝加茂工場(新潟)で労働組合員と警官隊の衝突が起こった。6月30日、福島県平市で、駅前に設置された共産党の掲示板を警察が撤去しようとした(福島県駐在の米軍の指示によるといわれる)ため、共産党員などが平警察署に押しかけ、最後には留置場から逮捕者を奪還したりした。
・・・・
・占領軍の強固な反共の指針、保守勢力が多数を占める政情勢、それらを背景とする警察や検察の強力な介入、混乱を脱却して企業における指導権を掌握しつつあった経営者側の強固な体制、そして労働運動そのものの分裂あるいは分解の進行が、全て共産党系の運動に不利に作用した、
対抗するためには、共産党員たちは地域の勢力を動員して強い抵抗あるいは抗議の行動を起こしたが、それは事件を頻発させ、保守勢力による反共宣伝に利用される材料をつくった。
・解雇の対象になった労働者の打撃は深刻であったが、ドッジ・ラインによるインフレ収束は大多数の国民に安心感をもたらした。戦後の改革と復興という現実を前提として、腰を据えて努力を積み重ねていけるような落ち着いた生活のできることを多数派の国民は望んだのであった。
強い闘争形態の提案や激しい行動様式の展開は、こうした空気ななかでは成功する可能性が小さかった。結果として、この時期の解雇反対闘争はほとんどすべてが敗北に終わった。≫
▲ 「いわれなき中傷」
今回で、「下山事件・三鷹事件・松川事件」に関する内容は、終わりです。
次回から、朝鮮戦争、日本の再軍備、安保条約と読みすすんでいきます。
昨日の記事でも書きましたが、共産党や共産主義思想に対する「漠然とした不審感」は、この頃に頻発した事件で、政権や政権党が共産党や、共産党員らに「いわれなき中傷」を投げかけ、それを国民に宣伝した結果、お子てきたことです。
もちろん、戦前に「こうした中傷」が行われたことも、見落とすわけにはいきませんが。
しかし、戦前の場合は、ほとんど表面に出てくるまえに、「その芽」を摘み取られてしまいましたから、こうした「いわれなき差別的感情」が固定化したのは、この三事件の影響が大きかった、ということが出来るでしょう。
(2015年11月12日)
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