2015年11月28日土曜日

トルーマン大統領「J・F・ダレスを国務省顧問に任命」

<正村 戦後史(55)>
トルーマン大統領は、1950年4月6日、ジョン・フォスター・ダレスを国務省顧問に任命します。ここから、講和問題が、本格的に動き出します。




 ダレスの「第1次案」 

【対日講和実現の努力は、事実上1947年秋以後中断されたが、1949年秋になるとアメリカ国務省が再び動き始めた。

・1949年9月に、アメリカ国務長官アチソンとイギリス外相べビンが会談した。イギリスはなお日本軍国主義の復活を恐れて講和後の日本に制限を課すことを主張していたが、この会談でようやく早期講和実現と制限撤廃に同意した。

アチソン・べビン会談のあと、フランスのシューマン外相も参加し、「米英仏3国は、極東問題について意見が一致した」との共同声明を発表した。一般には、イギリスとフランスがソ連の協力がなくても対日講和は推進することに同意したものと推測された。

・ケナンは、このころ日本の非武装・中立を前提としてソ連を含む全面講和を実現するという構想を示したが、採用されなかった。アメリカ政府の主流はソ連を除外した片面講和の方針を固めていた。

・早期講和実現にもっとも強く反対したのはアメリカ国防総省であった。国防総省は、統合参謀本部の意向を受け、在日基地を引き続き自由に使用するため占領の継続を求めた。

・1950年2月、ブラッドレー統合参謀部議長と陸海空3軍の参謀総長が日本を訪問し、マッカーサーと会談した。マッカーサーは、みずから軍人でありながら対日講和問題については国務省の早期講和に賛成してブラッドレーたちを失望させた。

ブラッドレーに同行したボーヒーズ陸軍次官は、帰国後、折衷案として、日本に形式上の主権を回復させ、連合軍最高司令官の日本駐留は残すという提案をした。国務省もこれに同調しかけたが、マッカーサーが強く反対した。

こうした中途半端な方式は、他の連合国や日本国民の反感を買い、単純な占領継続よりむしろ悪いというのがマッカーサーの意見であった。

ダレス、シーボルト、吉田
・トルーマンは、対日講和問題の打開をかかるため、1950年4月6日、ジョン・フォスター・ダレスを国務省顧問に任命した。ダレスはニューヨークのウォール外に法律事務所を持つ弁護士であったが、青年時代にベルサイユ講和会議に出席し、法律家・外交官として豊富な国際経験をもっていた。

共和党の外交政策に深く関与していたので「影の国務長官」とも呼ばれた。民主党出身のトルーマン大統領がこのような野党に近い人物を対日平和条約推進のために起用したのは、ダレス自身の手腕に期待したと同時に、この問題が政争の道具とされないよう超党派的に処理したいと考えたからだと見られている。

・1950年6月6日、ダレスは、国務省東北アジア課長アリソンとともに第1次案をまとめ上げた。要点は以下のようなものであった。

(1) 日本を平和的・親米的・反共的な国家に育成するという長期的目標を設定する。
(2) 共産分子の反乱に備えるために強力な警察軍を創設する。
(3) 占領の統制を段階的に撤廃する。
(4) 日本人のアメリカへの移民を許容する。

(5) 講和後の対日統制機構はつくらず、賠償その他の経済的制限は課さない。
(6)日本の国連加盟。
(7) ソ連を含む講和予備会議の全メンバーが加わる安全保障協定を平和条約と同時に締結する。

ダレスは、個人的にも「報復的講和条項はつぎの戦争を誘発する」という意見を持っていたといわれる。彼自身が参加したベルサイユ条約の経験をふまえた見解と思われる。】


 朝鮮戦争の影響

(7)の「ソ連を含む講和予備会議の全メンバーが加わる安全保障協定を平和条約と同時に締結する」という案が採用されていれば、歴史は、もっと、変わったものになっていたことでしょう。

しかし、この案が出されたのは、6月6日でした。そうです。まだ、この時点では、朝鮮戦争は、始められていませんでした。朝鮮戦争は、6月25日に開始されます。

従って、この「第一案」は、初めから、「反故」にされる「運命」にあった、ということが出来るでしょう。

その意味でも、朝鮮戦争の影響は、計り知れないほど、大きいものであった、ということが出来るでしょう。

日本は、「朝鮮特需」で、経済が復興するキッカケになりましたが、たとえ、「空き腹」を抱えることになったとしても、――ソ連を含む講和予備会議の全メンバーが加わる安全保障協定を平和条約と同時に締結する――この案が採用されていれば、「もっと」幸福な国になっていたことでしょう。

 明日も、この続きを読んでいきます。

(2015年11月28日)

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