<小室直樹 「田中角栄の呪い」 (2)>
今日は、ある投書が題材です。この投書をもとにして、デモクラシーの論理と儒教論理の違いについても観点から、「ロッキード裁判における田中角栄」を、観ていきます。
もっとも、これは序論です。
それは、「田中さん、恥を知ってください」というものです。つまり、裁判とは、「恥を知ること」なのか。事実関係の認識は、関係がないのか、と言う問題です。
日本においては、裁判でさえも、人間性や人格が優先されるという「話題」です。
★ 「恥の心」と、デモクラシー
【ある新聞にこういう投書があった。
・<角栄さん、恥の心知って>
・22日のロッキード公判で田中角栄さんは無実を訴え通した。田中さんは有能な政治家で、地元のために巨額の税金をまわし、打算私欲のソロバンの上に立つ人たちに選ばれて国民の審判、みそぎを受けたといっているが、肝心の人の心が狂い、乱れ、濁っていては世はよくならない。
・人と禽獣の異なるところは、恥を知ること、敬うということを知ることである、と故人は教えている。6年有余にわたる審理の間、一片の反省もなく、黒を白といい張り、ゴリ押しする姿は、免れて恥なしどころか、免れざるも恥なし、で寒心に耐えない。
田中さんに残された唯一の救いの道は、われ過てりと、素直に身の不徳を猛省し、「・慎独」の実践に徹することだ。
まれに見る優れた才能、手腕を、砂上の楼閣に等しいものに我執していては、汚名を千?に残すだろう。いまはもう、5億円の授受うんぬんだけの問題ではなく、人間性、人格そのものが問われている。田中さん、恥を知ってください。(1982年12月25日『朝日新聞』朝刊)
・この投書を読んで驚いた。デモクラシーの誤解まさにここにいたれるか、と。
・こう考える人がいる。それだけのことなら、べつにさしさわりはない。しかし、このような投書が、・ロッキード裁判がこの段階にいたったときに採用されたのだ。
ということは、最大手ジャーナリズムの大記者が、採用する価値があると思ったことはまちがいない。このことから容易に推察できることは、ジャーナリストにも、一般の人にも、投書した人と同じように考える人が、きわめて多いということだろう。
・読者の皆さんのなかにも、こうお感じになる方も多いだろう。熱烈な角栄ファンでこの感覚には反対の人びとでも「世の中にこう感ずる人がすこぶる多いにちがいあるまい」、ここまでは認めないわけにはゆかないであろう。
・しかし、私はそうは思わない。
・まず、戦後38年にして、日本人は、デモクラシ―の上っ面さえ、少しも理解してない。まず、そう感じた。いや、もっと驚いたことには、このことに絶望した学者もジャーナリストも一人もいないことだ。
・孔子は貜麟に春秋の筆を絶った(聖人が為政者<政治権力者>となる証しとして世に現れるといわれる聖獣が死体となって発見されたので、政治に絶望して文筆活動を止めて引退した)と言われるが、現在日本人のデモクラシー理解がいかなるものであるか、それに絶望して引退した学者もジャーナリストもいないということは、思えば不思議千万である。
いや実は、もっとも尊敬すべき学者はそれに近いことをしたのだが、これについては後に述べよう。
さて、右に引用した一人の真摯な老サラリーマンの投書は、大多数の日本人のデモクラシー誤解を代表する意味で、それほどまで重要なので、分析してみよう。
投書の主の考え方は、近代デモクラシーの論理と・儒教的論理とを、見さかいもなく混同している。
・この二つは、まったく異質的にできているから、ひとたび儒教的考え方に浸蝕されるや、デモクラシーはたちまち、濃硫酸をかけられた鉄くずのようにボロボロになって飛び散ってしまう。
・アジアにおける中進国の大部分が、経済発展においては先進国さえも顔色ならかしめる高度成長をとげながらも、ついに本来の意味におけるデモクラシーを実現しえない理由は、まさにここにある。
・「人と禽獣の異なるところは恥を知ることにある」とはまさに儒教的発想である。儒教の古典のなかでも、日本人がとくに好むのは論語と孟子であるが、たとえば、孟子にいう。
・「人の禽獣と異なるゆえんのものは、・人倫(道徳)あるにあり」
・これが儒教の根本思想だ。
・しかし、このようには、絶対に考えないのがデモクラシーなのである。「恥を知り」「人を敬う」などという人間像は、断じてデモクラシーの出発点にはない。】
★ 「基本的知識」の理解が重要
私が思うには、小室直樹博士は、この本で角栄を取り扱っていますが、――実のところは――民主主義について、政治の論理、あるいは政治家の倫理というようなことを説明するために、角栄の例を利用しているにすぎない。
こう考えます。
だから、この本には、いたるところで、デモクラシ―の論理や倫理、その歴史的発展の説明が出てきます。
ここに書きだした文章も、そうです。ここでは、これから角栄論の展開するにあたって必要とされる「基本的知識」が確認されています。
世間では、――もちろん、そう見る向きがないことは、あるでしょうが――小室氏は、「変わり者」という印象が強いと思われているようですが、こと、学問に関しては、基本的な認識を重要視されます。
そのことは、同時に、小室氏自身の立場を先に明確にしておく、という意味合いがある。そういうことでもあると思います。
そういうことで、後、2・3回は、こういう議論が続きます。
(次回は、丸山真男の説く、政治論が中心になります。)
2015年11月15日)
今日は、ある投書が題材です。この投書をもとにして、デモクラシーの論理と儒教論理の違いについても観点から、「ロッキード裁判における田中角栄」を、観ていきます。
もっとも、これは序論です。
それは、「田中さん、恥を知ってください」というものです。つまり、裁判とは、「恥を知ること」なのか。事実関係の認識は、関係がないのか、と言う問題です。
日本においては、裁判でさえも、人間性や人格が優先されるという「話題」です。
★ 「恥の心」と、デモクラシー
【ある新聞にこういう投書があった。
・<角栄さん、恥の心知って>
・22日のロッキード公判で田中角栄さんは無実を訴え通した。田中さんは有能な政治家で、地元のために巨額の税金をまわし、打算私欲のソロバンの上に立つ人たちに選ばれて国民の審判、みそぎを受けたといっているが、肝心の人の心が狂い、乱れ、濁っていては世はよくならない。
・人と禽獣の異なるところは、恥を知ること、敬うということを知ることである、と故人は教えている。6年有余にわたる審理の間、一片の反省もなく、黒を白といい張り、ゴリ押しする姿は、免れて恥なしどころか、免れざるも恥なし、で寒心に耐えない。
田中さんに残された唯一の救いの道は、われ過てりと、素直に身の不徳を猛省し、「・慎独」の実践に徹することだ。
まれに見る優れた才能、手腕を、砂上の楼閣に等しいものに我執していては、汚名を千?に残すだろう。いまはもう、5億円の授受うんぬんだけの問題ではなく、人間性、人格そのものが問われている。田中さん、恥を知ってください。(1982年12月25日『朝日新聞』朝刊)
・この投書を読んで驚いた。デモクラシーの誤解まさにここにいたれるか、と。
・こう考える人がいる。それだけのことなら、べつにさしさわりはない。しかし、このような投書が、・ロッキード裁判がこの段階にいたったときに採用されたのだ。
ということは、最大手ジャーナリズムの大記者が、採用する価値があると思ったことはまちがいない。このことから容易に推察できることは、ジャーナリストにも、一般の人にも、投書した人と同じように考える人が、きわめて多いということだろう。
・読者の皆さんのなかにも、こうお感じになる方も多いだろう。熱烈な角栄ファンでこの感覚には反対の人びとでも「世の中にこう感ずる人がすこぶる多いにちがいあるまい」、ここまでは認めないわけにはゆかないであろう。
・しかし、私はそうは思わない。
・まず、戦後38年にして、日本人は、デモクラシ―の上っ面さえ、少しも理解してない。まず、そう感じた。いや、もっと驚いたことには、このことに絶望した学者もジャーナリストも一人もいないことだ。
・孔子は貜麟に春秋の筆を絶った(聖人が為政者<政治権力者>となる証しとして世に現れるといわれる聖獣が死体となって発見されたので、政治に絶望して文筆活動を止めて引退した)と言われるが、現在日本人のデモクラシー理解がいかなるものであるか、それに絶望して引退した学者もジャーナリストもいないということは、思えば不思議千万である。
いや実は、もっとも尊敬すべき学者はそれに近いことをしたのだが、これについては後に述べよう。
さて、右に引用した一人の真摯な老サラリーマンの投書は、大多数の日本人のデモクラシー誤解を代表する意味で、それほどまで重要なので、分析してみよう。
投書の主の考え方は、近代デモクラシーの論理と・儒教的論理とを、見さかいもなく混同している。
・この二つは、まったく異質的にできているから、ひとたび儒教的考え方に浸蝕されるや、デモクラシーはたちまち、濃硫酸をかけられた鉄くずのようにボロボロになって飛び散ってしまう。
・アジアにおける中進国の大部分が、経済発展においては先進国さえも顔色ならかしめる高度成長をとげながらも、ついに本来の意味におけるデモクラシーを実現しえない理由は、まさにここにある。
・「人と禽獣の異なるところは恥を知ることにある」とはまさに儒教的発想である。儒教の古典のなかでも、日本人がとくに好むのは論語と孟子であるが、たとえば、孟子にいう。
・「人の禽獣と異なるゆえんのものは、・人倫(道徳)あるにあり」
・これが儒教の根本思想だ。
・しかし、このようには、絶対に考えないのがデモクラシーなのである。「恥を知り」「人を敬う」などという人間像は、断じてデモクラシーの出発点にはない。】
★ 「基本的知識」の理解が重要
私が思うには、小室直樹博士は、この本で角栄を取り扱っていますが、――実のところは――民主主義について、政治の論理、あるいは政治家の倫理というようなことを説明するために、角栄の例を利用しているにすぎない。
こう考えます。
だから、この本には、いたるところで、デモクラシ―の論理や倫理、その歴史的発展の説明が出てきます。
ここに書きだした文章も、そうです。ここでは、これから角栄論の展開するにあたって必要とされる「基本的知識」が確認されています。
世間では、――もちろん、そう見る向きがないことは、あるでしょうが――小室氏は、「変わり者」という印象が強いと思われているようですが、こと、学問に関しては、基本的な認識を重要視されます。
そのことは、同時に、小室氏自身の立場を先に明確にしておく、という意味合いがある。そういうことでもあると思います。
そういうことで、後、2・3回は、こういう議論が続きます。
(次回は、丸山真男の説く、政治論が中心になります。)
2015年11月15日)
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