2015年11月6日金曜日

皇居目広場に40万人が集結「吉田閣打倒、危機突破国民大会」

<web読書会  正村(36)>
ゼネストの決行日の2、3日前、皇居前広場で、「吉田閣打倒、危機突破国民大会」が行われました。参加者は40万人といわれました。

2月1日と決まったゼネストは、マッカーサーの「ゼネストの中止を命ずる声明」により、とん挫しました。

このことは、マッカーサーの民主化が、「偽物=見せかけ」でしかなかった、ということを証明するものです。

この時、すでに日本国憲法は、施行されていました。しかし、憲法は、あって無きが如き状態でした。時代が悪かった、と考えるしかないのでしょうか。

声明を受けて、全官公庁共闘議長の伊井弥四郎は、ラジオで涙ながらに、「2・1ゼネスト中止」を放送しました。


 ゼネスト中止命令

≪1947年1月22日、GHQの経済科学局長マーカット准将と労働課長コーエンは、全官公庁共闘議長伊井弥四郎(国鉄出身)を呼び、勧告文を手交した。勧告文は、ゼネストその他の共同行為によって全国的通信や輸送機関の継続的業務を阻害することなどは占領軍の目的を妨害するものとみなされると述べ、さらに、ゼネストは日本の大衆全体にたいして非常に破壊的であり、連合軍総司令部はこれにたいして断固たる徹底的な措置を取る必要があるとして、ゼネスト中止を求めていた。

・同じく1月2日、政府は、官公庁職員の給与を1月からとりあえず一人一律110円と棒給および給与の25%とを加えた額だけ引き上げること、給与の新円払いの限度を500円から700円に増やすことなどを内容とする回答を提示した。政府の譲歩が示されていたが、23日、全官公庁共闘は拒否を表明した。

・同じ23日、共産党は、ゼネスト支持、民主人民政府樹立、社会党右派による吉田との連立の動きの反対、という声明を発表した。社会党は、「今日の危機を招いた責任は吉田内閣にある」としながらも、ゼネストは絶対に避けねばならないと訴える声明を出した。

声明は中央労働員会の斡旋による解決を期待し、さらに、吉田内閣は総辞職すること、新政権は各党間の協議によって決めることなどを主張した。

・1月25日になってようやく全官公庁共闘と政府代表(幣原国務相など3閣僚)との団体協商がはじめられた。これだけの大闘争でありながら、このときまで要求書と回答書を手交し合うだけで同じテーブルについて交渉することはなかったのである。

25日の第1回交渉では、政府側が全官公庁共闘側の要求を聴いただけであった。同日、全官公庁共闘の代表は、GHQのコーエン労動課長にたいして「要求を獲得しなければ組合員は納得しない」と述べ、ゼネスト決行の方針は変えられないことを伝えた。

・28日、皇居前広場で「吉田内閣打倒、危機突破国民大会」が開かれた。参加者は40万人と称された。産別会議、総同盟、日労会議、全官公庁共闘、社会党の代表が議長および副議長をつとめ、「最低賃金制確立」「吉田亡国内閣打倒」「社会党中心の民主政府の樹立」などのスロ-ガンを採択した。大阪、名古屋、横浜での集会が開かれた。

・中央労働委員会は、1月27日、斡旋に入ることを決めた。

・28日と29日に第2回と第3回の団体交渉が行われた。給与の引き上げをめぐって提案のやりとりがあり、共闘側の平均手取り1200円という主張にたいして、石橋蔵相ら政府側は最後には税込み1200円を認めるところまで譲歩した。共闘側は、29日夜、拒否を回答した。

・民間の単産または単組で2・1ゼネスト参加をこの時期までに決議したところも少なくなかった

・1月30日、マーカット准将らは再び伊井共闘議長と各組合の闘争委員長を呼び、「ゼネスト中止指令を出せ。これは命令だ」と迫った。中央労働委員会は、30日夜まで斡旋に努力したが成果はなかった。

(「ゼネスト中止」を放送中の伊井弥四郎)


・2・1ゼネストは、基本的には官公庁職員の労働組合の待遇改善の要求を土台として準備された。官公庁職員といっても国鉄、電信電話、教員、その他現業部門労働者が基幹をなしていた。

大きな工場などない地方では、国鉄、郵便局(電信電話もここで扱われていた)、学校などに勤務する公務員だけが給与生活者であり、近代的雇用関係に組み込まれた労働者であり、労働組合員であった。

・民間大企業の労働運動は炭鉱地帯や大都市周辺の苦情地帯に民主化の嵐をまき起こしたが、全官公庁共闘の2・1ゼネスト準備はその嵐を一挙に全国津々浦々に拡大する役目を担った。

当時、国鉄は唯一の輸送動脈であり、通勤通学手段でもあった。その無期限ストは産業と生活に深刻な打撃を与えることが予想された。2・1ゼネスト必至の報道が讃えられ、ほとんどすべての国民が何らかの対応策を用意した。

・しかし、1月31日午後2時半、マッカーサーがゼネストの中止を命ずる声明を発表した。マッカ―サーは、「現下の困窮かつ衰弱せる日本の状態において、かくの如き致命的な社会的武器を行使することを許可しない」と述べ、ゼネスト中止を指令したことを明らかにするとともに、「ゼネストに関係している人々は日本国民の少数にすぎない」のに、「この少数の人々は、このあいだ日本を戦争の破壊に導いた少数派のもたらしたものと同様の災禍のなかへ大多数を投げ込むかも知れない」と非難した。

さらに、マーカット准将はアメリカの対日食糧援助に触れ、2.1ゼネストのような破棄的行為がおこなわれれば連合国の対日援助も打ち切られるだろうと警告した。

・マーカット准将らは、マッカ―サーの声明を労働組合側に伝え、ラジオを通じてストライキ中止を放送することを要求した。

午後9時20分、全官公庁共闘議長の伊井は、ラジオで、「マッカ―サー連合軍最高司令官の絶対的命令とあれば、遺憾ながら中止せざるをえない」と述べた。伊井は、「私は、いま、一歩退却、二歩前進という言葉を思い出します」・・・と語り、「労働者農民万歳。我々は団結しなければならない」と結んだ。≫


 マッカーサーが、「天皇」の上に君臨していた

「参加者=40万人」が、少ない人びとなのでしょうか。もし、このゼネストが中止されていなければ、もっと、多くの人々が、全国津々浦々で、デモやストライキに参加していたことでしょう。

結局、マッカーサーのいう「民主化」も、「偽りのもの」でしかありませんでした。自分たちにとって「都合の悪い」運動は、「反民主主義」なものという観方をすることしかしませんでした。

このゼネスト中止命令は、そのことをよく表しています。この中止命令を理解するには、「占領体制」を振り返る必要があります。

この占領中は、マッカーサーが、「天皇」の上に君臨していたのでした。マッカーサーこそが、実質的な「天皇」であったわけです。

尚、付言すれば、伊井が言った「一歩退却、二歩前進」というのは、ロシアの革命家・思想家の「レーニン」が書いたパンフレットの題名『一歩前進、二歩後退』から取ったものです。

それにしても、なぜ、こうも日本人は、「正直」なのでしょうか。中止を命令されて、何故、素直に応じたのでしょうか。

強行突破することも出来たはずです。そうすれば、伊倉マッカーサーでも、多くの参加者を逮捕することは出来なかったでしょう。

そんなことをすれば、それこそ、日本国民と、マッカーサーが、「面と向かうこと」になったことでしょう。

こういう時の「集団としての行動」の仕方は、今も昔も変わりません。これは、日本人の「習性」なのでしょうか。

もし、そうだとすると、大変です。また、同じことが繰りかえされる「危険」があるからです。「個の自覚がない」というのは、民主主義にとっては致命的です。

「空気に流される」ということ「習性」を是正しない限り、この国は「危険」である、――世界に国々からーーと見做されることがなくならないでしょう。


 明日は、ゼネスト中止」以後の動きを、見ていきます。)

(2015年11月6日)

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