2015年11月4日水曜日

安倍首相の”DNA”「岸信介の”中国敵視”の思想」

<web読書会 正村(34)>
岸信介首相は、11月にも、アジア9か国を訪問する旅にでます。しかし、岸は、決して、中国訪問を考えることはありませんでした。また、当然、岸の「中国敵視の思想」に
基づく政策は、日中間の関係を極度に悪化させるものとなりました。

そしてまた、この「思想」は、見事に安倍首相に引き継がれています。



◆ 日中関係の悪化

≪岸は、「国連中心主義」「自由陣営との協力」と並んで、「アジアの一員としての日本」を強調した。しかし、岸の外交政策はアジア最大の国民を擁する中国との関係を悪化させる要素を含んでいた。

賠償や経済援助を武器に東南アジア諸国との関係を強化し、国連で「アジア代表」の立場を強調し、民族主義的運動が共産主義の浸透に利用されないように警告するという岸の路線は、中国側では、平和共存政策を推進する中国の政治的な封じ込めを意図するものと感じられたはずである。

岸の行動が精力的であっただけに警戒心も強かったと考えられる。実際、岸内閣の登場で日中関係は極度に悪化する結果になった。

・1958年2月26日、北京で八幡製鉄常務稲山嘉寛を団長とする日本鉄鋼代表団が中国側と日中鉄鋼協定に調印した。5年間1008億円のバーター協定であった。

3月5日、同じく北京で訪中貿易使節団(団長池田正之輔)と中国貿易促進委員会(主席南漢?)が第4次日中間貿易協定に調印した。

・第三次協定は1955年5月に調印され、1956年4月に1年間延長が取り決めらたが、1957年5月以後は新内閣の動向見極める必要もあって交渉開始が送らされ、無協定状態になっていた。

・岸は、石橋内閣の外相の時期に、中国代表部の設置を認める必要はないと発言していた。岸内閣発足後の1957年6月、名古屋と福岡で予定された中国商品展のため来日しようとした中国側調査団の入国にさいさて、政府が外国人登録法の規定により指紋を取ることを要求したため中国側が反発し、商品展も無期延期になり、1957年9月21日に北京で開始された貿易交渉もなっ難航した。

・第4次協定では、懸案の通商代表部問題について、協定のなかに基本的規定を記し、具体的内容は別に覚え書きで示すという方法がとられることになった。その覚書の原案では、代表部員に外交官に準ずる待遇を用意し、双方の代表部の国旗掲揚を認めることになっていた。

自民党は、1958年2月22日、交渉を中断して帰国中の池田らの使節団員に外交特権を付与せず国旗掲揚も認めないという修正要求を伝えた。

池田使節団はこの修正案を中国側に示したが、中国側が拒否した。池田らもそのような修正案では妥結不可能と見て、3月5日、北京でほぼ原案のまま調印したのであった。

・同じ3月5日、岸は、国会での答弁で「国旗掲揚の権利を有する」という文句は適当ではないと発言し、このままでは政府としては貿易協定を承認できないと述べた。3月12日、日本駐在の国民政府(蔣介石政権)大使が日本政府に日中民間貿易協定調印に抗議し、蔣介石から岸へのメッセージを手交した。

14日、台湾政府は、台北での日台通商会談を中止させた(4月15日に再開)。岸は、4月1日、蔣介石に親書を送り、「日本は北京政府を承認する意図を持っていない。日本の国内法では中国国旗の掲揚を阻止することは出来ないが、権利として国旗の掲揚を認めるわけではない」と述べた。

4月9日、政府は、日中貿易関係四団体にたいして、日中民間貿易協定は国内法令の範囲内で実施すると回答し、愛知官房長官は、民間通商代表部に特権的地位を与えることはしないし、国旗の掲揚も権利としては認められないという談話を発表した。

4月13日、中国国際貿易促進員会首席南漢?は、日本政府の回答は第四四次民間貿易協定を拒否したものだと非難した。

・・・・・・

4月30日、日本駐在の国民政府大使館は、長崎で開催中の中国切手剪紙錦織展示会の中国国旗を取り下げるよう日本外務省に要求した。5月2日、その展示会会場で日本人の青年が中国国旗を引きづりおろす事件が起きた。

警察はまもなく犯人を釈放し、「旗が破れていないので器物損壊の項に触れるかどうか難しい」、「外交関係のない国の国旗に対する侮辱は刑事事件を構成しない」と述べた。青年は長崎簡易刑務所で軽犯罪法違反の処分を受けたにすぎなかった。

五月9日、中国の陳旗?外相は、「岸内閣が長崎国旗事件を放任しているのは中国敵視政策の表れだ」と声明した。10日、日本外務省は、陳?声明は日本にたいする内政干渉に等しいと反論する非公式見解を表明した。同日、中国側は、東京での日中鉄鋼協定に基づく商談をはじめ、いっさいの既契約・商談の破棄を通告してきた。

11日、陳?外相は、日中間のあらゆる経済・文化関係は断絶せざるをえないと言明した。5月13日、政府は、日中問題はしばらく静観するとの態度を閣議で確認した。21日、台北で日本と台湾の貿易に関する新しい取り決めが調印された。≫


 「中国への侵略」を心から反省していない

5月22日に総選挙がおこなわれましたが、自民は議席をほぼ維持することになりました。日中関係の悪化も、自民党の立場を悪くする事にはなりませんでした。

またしても、日本の国民は、岸に「お墨付き」を与えました。こうしてみると、結局のところ、日本の国民は、「戦前の中国への侵略を心から反省していなかった」ということになります。

岸こそ、ある意味において、「中国侵略の権化」であったはずです。その岸が率いる自民党を多くの国民が支持をしたということは、日本が行った「戦前の行為」を認める、ということになるのではないでしょうか。

「中国の国家体制が変わったからだ」という言い訳は、通用しないと思います。

いくら、国家体制が変わろうと、「過去は、帰ることは出ない」からです。日本がしたことを、「帳消し」にすることは出来ないのです。


※ ここから、「安保改定」の記述が始まります。
しかし、この「安保改定」を考えるには、やはり、「安保条約」そのもののについて、観ておくこと」が必要であると考えます。

それで、次回から、しばらくの間、「上巻」に戻っていきたいと思います。
歴史の記述は、時間軸を考慮することが必要ですが、我々、読者は、ページを後戻りすることも、飛ばして読むことも、自由です。

(余談ですが)実は、こういう読み方こそ、「読書のコツ」ではないかと、最近になって思うようにいなりました。

(2015年11月4日)

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