2015年11月12日木曜日

糸川英夫氏の観る日本人「物事の根源をつき詰めない」

<糸川 「日本が危ない」 (1)>
新シリーズです。第1回目は、糸川英夫博士の本の中から紹介します。日本人は、「物事の根源をつき詰めない民族性」があるという「内容」です。



どれくらいの分量になるかは解りませんが、日本人あるいは日本の国など、おおざっぱに考えた「シリーズ」を始めました。具体的にどんな内容を取り上げるのかということについても、まだ、明確なものは、ありません。

ですから、系統だったものにすることは出来ない、と考えています。私の目についた「文章」を、余り脈絡にない形で、紹介していくことになると思います。


 物事の根源をつき詰めない民族性

≪日本人は、物事の根源を突き止めようとする欲求が希薄な民族である。すぐに生活に役立つものものにしか価値を認めようとはしない傾向がる。

たとえば、昔、遣隋使や遣唐使で、僧侶や学生が中国へたくさん行った。この人たちは、もちろん仏教も学んできたが、それ以上に橋を架ける技術、土木・建築法、医術や薬品調合など実用的なテクノロジーを勉強してきて、その人たちが中心になって奈良という都市や平安の都を建築したわけである。

もちろん、こうしたプラグマティズムも必要である。人びとの生活にすぐに役立つことをやる才能も立派な才能である。ただ、これにしか価値を認めないということになると、どうしてもひずみが出てしまう。

人間が人間として生きるということは、どういうことか、死とはなにか、こういったことを考える時期を持たないと、欧米社会と付き合うときにバランスがとれない。

たとえば、最近、禅とか瞑想、ヨガなどの本がたくさん出版されている。しかし、そのどれを見ても、呼吸法ですべてかたずけられている。そこには、宇宙や人生の根源に触れる事柄が少しも書かれていない。浅薄きわまりない。

また、会社の社員研修の一環として、禅寺で禅を組ませるということもさかんに行われているが、そこで果たしてどれだけ哲学が論じられているのか。企業の利潤追求に対しする集中力を養うということしか目的にされていないのではないか。



教育にしても同じである。教育の基本に、日本人が日本人として生きるとはどういうことかという観点が置かれていない。教育問題をマスコミがあまり取り上げすぎるので、かえって本質が見失われているような気がする。

日本の教育は、明治以前は、なんでもユーロッパの真似をして制度だけをつくった。敗戦後も占領軍の意向に従ってアメリカの制度に合わせたものをつくった。要するに、教育とはなにかということを、自分自身で考えたことがないのである。

いま憲法を改正しようとか、国防を考えなおそうとかいう論調があるが、その前に、人間が生きるとはどういうことか、日本民族とはなにか、世界の中で日本民族はどうあるべきかということを自分自身で考えて、日本民族に合った教育制度を確立することが先決だろう。

イスラエルの人たちは、教育を人生の基本においている。イスラエルの教育は、3歳から13歳までの10年間、生徒一人に先生一人がついて、先祖から受け継いで親が持っているものを、子供にすべて渡すというシステムになっている。

とにかく、経済のブレーキを踏んで余力をつくり、その余力で 教養、文化、教育を考えなおす必要があるだろう。

日本人は、徳川が明治に変わった時点に立ち戻って、針をいったんゼロにし、つまり明治がやった欧米模倣、あるいは戦後にやったアメリカ追従主義をご破算にし、徳川以前の状態を思い起こして、そこから新しいものを想像していかなければならないのではないだろうか。≫(『日本が危ない』 講談社刊 )


 「時代が変わった」か

読まれた感想は、どうでしかでしょうか。これが出された年を、いつごろだと思われますか。この本は、最近の本ではありません。

実は、この本の初版は、1987年です。約30年も前に出された本です。10年ひと昔というますから、「み昔」も前に書かれたことになります。

それでも、どうでしょう。書かれている内容に「過去のものになっている」という印象を持たれたでしょうか。

私は、ぜんぜん、そういう感想を持ちませんでした。

糸川氏の描きだしている「世界」は、今日でも十分に当てはまると思います。糸川氏の問題意識は、今日の日本でも、十分に「新しい」と言えると思います。


時代が変わった、といわれます。しかし、本当にそうでしょうか。変わったのは、人々の考えかたであって、「事の本質」は、――今も、昔も――変化していないように思います。

川の表面の泡立ちは変化していても、その川の底を流れている「本流」は、変化していないのと同じで、大きな目で見れば、時代はそんなに変化していないのではないでしょうか。

このことは、同時に、人間が昔とあまり変わってきていない、ということでもあると思います。

そうである以上――この前提が、「正しい」とするとして――物事の根源をたどることは、いつの時代にあっても、大切なことのように感じます。

日本人は、あまりに技術ばかりを先行しすぎてきた。その結果、自分自身が、その技術に絡め取られている、という感じがしています。

現代の「教養」に、パソコンや、英語、簿記(財務書)などを取り上げる人がいます。

もう、今日の教養として、――論語に代表されるような「古典の知識」は――、「今日の日本には、そぐわない」と考える、高名な経営コンサルタントがおられます。

しかし、科学とか、哲学とか、教育とかというものを考えると、人間にとっての「教養」は、もっと、普遍的なものであるように、私には思えます。


(2015年11月12日)

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