<名月が優しく海辺を包む 高知市浦戸の風景>
『9月8日は旧暦8月15日の「中秋の名月」。高知市浦戸の海岸では白く輝く月が、見上げる人たちを優しく照らした。
前夜の雨から一転、雲のほとんどない「月見日和」。西の空が薄あかね色に染まり始めると、東の海上に円い月が顔を出した。
かつては人々が満ち欠けを基に暦を数え、ささげ物をして感謝した「お月さま」。昔も今も、見上げる人の心を癒やし、落ち着かせる。
「僕ら高校卒業から県外に出て、離れ離れになっちゃって」
県道沿いの堤防に腰掛けていた帰省中の大学生カップル。「こんなに明るかったんや。海があんなに輝きゆう」と、美しい月夜を楽しんでいた。』
◆
この月を、幼いころは、「泣き虫」と言われた坂本竜馬も、見上げたことだろう。
あるいは、高知の反対側の松山港では、正岡子規が、この月を見上げたことだろう。
正岡子規が産まれたのが、1867年の10月14日。
そのわずか、2か月後に、竜馬は、京都で暗殺され、命を落した。
31歳であった。
だから、正岡子規は、竜馬の「生まれ変わり」といって良いぐらいだ。
だが、その子規も、35年後には、短い生涯を閉じる。
子規は、その短い生涯にもかかわらず、幅広い活動し、日本の文化の近代化に大きく貢献した。
どちらも、日本のために、一大事業をなした、と言える。
遠い空の上で、孤独な月は、これらの事を見ていただろう。
その月が、夜になると、今も輝く続けている。
不思議な気がする。
太陽と月のコンビに、我々人間は、どれほどの恩恵を受けてきている事だろう。
だが、月も太陽も、何も、言わない。
ただ、輝く続けるだけだ。
それが当然のことであるかのように・・・。
(2014/10/9)
この月を、幼いころは、「泣き虫」と言われた坂本竜馬も、見上げたことだろう。
あるいは、高知の反対側の松山港では、正岡子規が、この月を見上げたことだろう。
正岡子規が産まれたのが、1867年の10月14日。
そのわずか、2か月後に、竜馬は、京都で暗殺され、命を落した。
31歳であった。
だから、正岡子規は、竜馬の「生まれ変わり」といって良いぐらいだ。
だが、その子規も、35年後には、短い生涯を閉じる。
子規は、その短い生涯にもかかわらず、幅広い活動し、日本の文化の近代化に大きく貢献した。
どちらも、日本のために、一大事業をなした、と言える。
遠い空の上で、孤独な月は、これらの事を見ていただろう。
その月が、夜になると、今も輝く続けている。
不思議な気がする。
太陽と月のコンビに、我々人間は、どれほどの恩恵を受けてきている事だろう。
だが、月も太陽も、何も、言わない。
ただ、輝く続けるだけだ。
それが当然のことであるかのように・・・。
(2014/10/9)
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