2015年12月1日火曜日

”正当”な主張「知識人による”全面講和”の主張」

<正村 戦後史(58)>
今回は、「全面講和論」です。米国や、日本政府の方針に反して、日本の知識人や、報道機関などから、「全面講和」を押す動きが起きてきました。


その代表例が、35人の知識人による「平和問題談話会」の講和問題に関する声明です。それは、月刊誌『世界』に掲載されました。


 「全面講和論」

【平和条約の準備に関しては日本側は討議や交渉に参加する資格を奪われていた。日本は公式には講和の「条約」について連合国側と交渉する機会を与えられなかった。実際には、ダレスは、各国との交渉のあいまに三回来日し、吉田首相とも会い、日本側の意見や要望を聴取した。吉田がとくに希望した在外同胞の引揚に関して最終草案に盛り込むなどの配慮もした。しかし、平和条約の内容や締結の手順については、基本的にはアメリカ側が一方的に推進した。

・すでに1949年5月7日、吉田首相は、講和後もアメリカ軍の日本駐留を希望すると明言していた。のちの日米安全保障条約方式はこのとき公然と語られた。

同年111月11日、吉田は、参議院本会議に席上で「単独講和も、それが全面講和へと導くものであるならば喜んで応ずる」と発言した。とりあえずは単独(片面)講和によって主権を回復し、残された国と順次国交を回復するという方式が示唆された。

・しかし、1949年10月1日に中華人民共和国が成立し、ソ連の反対を無視して対日講和を推進する片面講和方式は同時に中国をも排除する結果となることが確実になってきた。

日本がもっとも長期にわたって侵略を遂行し、はかりがたい損害と犠牲を強いたのはほかならぬ中国であった。その中国大陸を公式に代表することになった北京政府を除外して講和を急ぐことは、戦後処理のあり方として大きな問題があった。

こうした状況のなかで、国内の野党や在野の諸勢力のあいだで、全面講和、永世中立、軍事基地反対の意見が強くなった。

・ソ連や中国の共産主義政権を重視する日本共産党やその影響下の諸勢力が全面講和を強く主張したのは当然であった。産別会議は、その勢力を急速の意弱めながらも、単独講和反対運動を組織しはじめていた。

吉田首相の参議院における単独講和肯定発言の翌日の1949年11月12日、産別会議は全面講和を要求する幹事会声明を発表した。

同日、日本社会党も、中央執行委員会で全面講和・中立堅持・軍事基地提供反対の「平和3原則」を決定した。社会党は、この段階では、全面講和で意見が統一されていた。

・1949年12月9日、東京大学総長南原繁は、ワシントンで開催されたアメリカ占領地教育会議に出席したさい、全面講和の必要性を強調して注目された。



・1950年1月15日、35人の知識人による「平和問題談話会」の講和問題に関する声明が、月刊誌『世界』(岩波書店)に掲載された。

・この声明は、以下のように述べて全面講和の必要を説いた。

第1に日本その憲法に示された平和精神に則って世界平和に寄与するため、そして第2に日本が一刻も早く経済的自立を達成して「外国の負担であるような地位を脱却する」ため、全面講和が必要である。

「二つの世界の存在」という現実から「単独講和」か「全面講和」かという問題が発生しているが、日本はすすんでこの二つの世界の調和をはかるという積極的態度をとる必要がある。

単独講和は、日本が一方の陣営との結合を深める反面、他方の陣営とのあいだに戦争状態を残すことになり、今後、後者とのあいだに不幸な敵対関係を生み出し、総じて世界的対立を激化せしめることになる。日本の中立・不可侵も、国連加盟も、全面講和が実現されてこそ可能となる。

・また、単独講和は、日本と中国その他諸国との関連を切断する結果となり、みずから日本の経済を特定国家への依存および隷属の地位に立たしめるばかりでなく、日本が「自ら欲せずして」再び平和への「潜在的脅威」となる危険もある。

・平和問題懇話会の声明は、右のように述べて全面講和の必要性を説くとともに、理由の如何によらず、講和後のいかなる国にたいする軍事基地の提供にも絶対に反対すると主張した。

・1950年4月26日、野党外交対策協議会が平和・中立・全面講和を主張する共同声明を発表した。アメリカ政府関係者は、4月27日、「中立は理想論だ」と論評した。

・言論・報道界でも全面講和の主張は有力であった。『朝日新聞』は、1950年5月20日から22日にかけての社説で、部分講和論を批判し、全面講和を前提する中立・非武装の立場をあきらかにした。】


 全面講和の「主張」は正しい

「平和条約の内容や締結の手順については、基本的にはアメリカ側が一方的に推進」することになったのは、――日本が、無条件降伏とした以上は――当然のことであると、観がることが出来ます。

ただ、その過程に関与することが出来なくても、「論評すること」や「その主張を行う」ことは、何ら、問題のあることでは、ないと言えると思います。

吉田首相が「単独講和」を推進した理由は、――一般に言われているように――日本の「経済的負担」を心配してのことであるとしても、あまりに「卑屈」な考えであった、と私は思います。

その点で、「平和問題談話会」、社会党、朝日新聞、野党外交対策協議会などの「全面講和」論の主張は、日本の自立や「対戦国」にたいする「処理」を考慮すると、当然のことであった。

とくに中国との関係においては、それはかくべからざる「選択であった」と、思います。


すでに、読者の皆さんも度存知のように、「結果」的には、単独講和ということになります。

しかし、この単独講和は、「平和問題談話会」の主張通りの「禍根」をのこすことななりました。

それは、現在、なお、十分に解決するに至ってはいません。

 明日も、さらに「全面講和」を読んでいきます。吉田首相の「主張」を重点的に、観ていきます。

(2015年12月1日)

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