2015年12月28日月曜日

県民の沖縄祖国復帰運動は、「軍事基地反対」運動へと転換した

<正村 戦後史(76)
沖縄返還と、沖縄住民の祖国復帰運動について、読んでいきます。祖国復帰運動は、「軍事基地反対」運動へと転換を遂げます。



 沖縄返還と、沖縄住民の祖国復帰運動

【1965年8月、はじめて沖縄を訪問した首相として佐藤栄作は「沖縄の祖国復帰なしには日本の戦後は終わらない」と発言したが、その後は慎重な態度をとり続けた。

・1960年の安保条約改定問題で日本政治が激動したあとの日米関係の修復のため、ケネディ政権はガーバード大学教授のエドウィン・ライシャワーを駐在大使に任命した(在任は1961~66年)。

ライシャワーは着任後の早い時期に沖縄を訪問して返還の必要を確認し、両国政府の説得を開始した。そのライシャワーは、当時の日本の保守派の人々は日米関係を損なうことを恐れて沖縄問題に消極的態度をとっており、佐藤首相も返還要請を口に出して断られるのを恐れ、きわめて慎重だったと述べている。

・アメリカの沖縄統治の政策は動揺を繰り返し、そのたびに住民の祖国復帰運動を刺激する結果になった。

・1960年代前半には、アメリカは沖縄を手放す意思を持たないことを明示し、日本からの援助も制限し、住民の自治権も抑制するという強硬策によって祖国復帰運動を沈静させようとした。

この政策はアメリカ議会による沖縄へのアメリカへの援助の抑制により維持できなくなった。アメリカの強行政策は住民の反発を強め、祖国復帰運動をさらに先鋭化させた。

1960年に広汎な県民を組織して結成された祖国復帰協議会は、1966年には「軍事基地反対」を目標に掲げるようになった。1960年代後半には、アメリカは、日本からの援助の拡大を認めるとともに住民の自治権を承認する方向へ方針転換せざるをえなくなった。

アメリカは、祖国復帰運動の高揚に直面して沖縄の恒久的維持が不可能になりつつあることを認識せざるをえなくなり、行政への県民代表の参加を進めつつ、当面、沖縄の保守政治勢力の結集に期待をつないだ。アメリカは沖縄返還の時期と方法を模索する段階にはいりつつあった。

ベトナム戦争が激化するなかで基地反対運動も激化した。アメリカ軍統治下で軍事基地の飛躍的拡大がはかられたため、島のなかに基地があるというよう基地のなかに島があるといわれる状態になっていた。


沖縄全土に占めるアメリカ軍基地の面積に比率は日本返還の時点で14・8%にも達していた。

・長距離爆撃機B52のベトナムへの発進も恒常化し、原子力潜水艦のコバルト60による海水の汚染や基地周辺の地下水への石油の浸透による「燃える気井戸」事件なども発生した。

そのため大規模な抗議運動が起こった。沖縄の政治情勢を安定化させることはアメリカにとっても緊急の課題であった。

・1968年11月10日、最初の琉球政府主席公選で革新統一候補の屋良朝苗が当選した。B52の撤去、基地反対、安保条約反対を唱えた屋良の当選は、沖縄県民の祖国復帰運動の発展を反映していた。

増大する基地反対デモにたいしてアメリカ軍は武装した兵士で警戒体制を強めた。アメリカ軍基地に勤務する労働者の組織(全軍労)は団体交渉権獲得など権利要求闘争を展開し、屋良当選にためにも重要な役割を演じた。

沖縄の保守派の政治勢力は、屋良当選に大きな力を発揮した教職員組合の力を弱めるため、管理体制強化を企画した法案を用意した。それは激しい反対運動を誘発した。

こうした情勢のなかで、沖縄返還協定に実現はようやく日本政府にとっても大きな外交的課題になってきた。

1960年代初期までは、日本政府の内部には一部領土から順次復帰を実現するという部分的復帰案や教育権などの一部機能の復帰から実現していくという機能的復帰案なども存在した。

しかし、1960年代後半には全領土の完全復帰案以外には考慮しえない状況になっていた。1967年以後、佐藤首相も、沖縄返還は回避しえない大問題であり佐藤政権の大きな仕事にならざるを得ないことを感じはじめていた。】


 日本の保守派の「常套手段」

いつものことですが、内部抗争を利用して、日本人同志を闘わせ相手の力を削ぐ、と言うやり方が、他国を支配する際の米国の特徴です。

そして、「祖国の復帰」をめざしての統一行動を組織することをせず、自分たちだけの利益の追求に走る、というのが日本の保守派の「常套手段」です。

彼ら保守派にとっては、彼らの利益の確保こそが重要なのであって、日本のことや国民のことは、2の次、3の次である、ということなのでしょう。

それにして、「基地反対デモにたいしてアメリカ軍は武装した兵士で警戒体制」を取るなど、民主国家と言われる米国の取る対応とは、とても思えません。

もし、米国内でこのようなことを行えば、一斉に国民の反発を受けるでしょう。

軍隊が国民に対して、銃口を向けるようなことをすれば、もはやそれは軍隊ではなくなり、「ただの暴力集団」と同じことになるのです。

明日は、いよいよ、この『戦後史』も、最後です。

(2015年12月28日)

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