2015年12月13日日曜日

岸の警職法改正「全国統一行動が、改悪を阻止した」

<正村 戦後史(64)>
岸の警職法国会上程。警職法改悪反対運動と、改定の断念などについて観ていきます。全国統一行動が、改悪を阻止することになりました。



ブログでは、省略しましたが、このページの前では、教員の勤務評定(勤評)問題が取り上げられています。この勤務評定に反対する闘争は、教育に関することだけに、猛烈な反対運動が起きました。

それは、一面的には、前の反省に基ずくものでした。この勤評闘争が、岸の「不安」を掻き立てたようです。


 警職法改悪反対運動と、改定の断念

【警職法改悪反対国民会議は、10月25日、同28日、11月5日、同7日、同15日と波状に全国統一行動を組織し、集会、デモ、ストなどを展開した。

10月27日、政府は、勤評闘争、道徳教育指導者講習会反対闘争、王子製紙争議(1958年4~12月)などの例を挙げ、これらの事例に示されている集団的な暴力行為を阻止するために警職法改正が必要なのだと説くとともに、労組が政治ストを決行しようとしているのは不法だと非難する声明を発表し、反対運動の牽制をはかった。

しかし、その効果はなかった。

・反対運動の高揚を背景に社会党も国会で強硬に審議阻止をはかった。政府・与党内部でも岸首相の強引な方法にたいする批判が生まれ、経済企画庁長官三木武夫、自民党総務会長河野一郎などが警職法改正断念を主張した。

しかし、岸は、あくまで警職法改正成立をめざし、11月4日には、抜き打ち的な手段で30日の会期延長を強行採決させた。それは反対運動を激化させる要因になった。


警職法改悪反対国民大会で挨拶する鈴木社会党委員長

・社会党は、11月7日で臨時国会は終了したものとみなし、以後は登院を拒否した。国会は麻痺状態になった。新聞などの論調も岸首相の強引な国会運営を非難した。岸はついに警職法改正を断念し、11月22日、社会党鈴木茂三郎委員長と会談した。

警職法は審議未了とし、衆議院は自然休会とすること、参議院は補正予算案とその関係法案を審議したうえで休会とすることが了解された。法案の提出から廃案までわずかに1か月半足らずの騒動であった。

これによって、広汎な国民のあいだでの「岸は反動的だ」というイメージはいっそう強まった。反体制勢力はこの事件によっていっそう広汎な基盤をもった社会運動・政治運動を展開する契機を与えられた。

・岸は、勤評その他の問題をめぐる日教組や野党勢力の激しい抵抗を見て、きたるべき安保条約改定批准の難航を予想し、反対闘争を抑止しうる警察権力を補強する必要があると考え、警職法を一挙に実現しようとしたものと思われる。

この年、総選挙後の第二次岸内閣成立後の8月に「長期安定よりも短期断行」といいきっていた岸らしいやり方であった。しかし、警察の権力を強めるという方法はいかにも戦後民主主義の根幹を揺るがすものに思われたし、岸の強引なやり方は国民のあいだに強い反発を生んだ。

反対運動は、社会党左派、総評、日教組などの影響力の範囲をはるかに超えて一挙に大きくなった。広汎な勢力を結集した警職法反対運動が急速に全国に組織されたことは、社会党と総評の指導部の自信を強めた。

警職法改悪反対国民会議それ自体がのちの安保条約改定阻止国民会議の母体になった。岸の方法は、その意図に反して、反対勢力の態勢を飛躍的に強化し、安保条約改定阻止闘争の基盤を広げる効果をもったのであった。

・警職法改正問題における岸の失敗は、自民党内の反主流派(池田派、三木・石井派、石橋派)による政府・自民党幹部に対する責任追及と人事刷新の動きを激化させた。

12月27日、池田国務相、三木経済企画庁長官、灘尾文相(石井派)の3人が辞表を提出した。岸は、それに応じ、1959年1月12日、内閣改造を行った。幹事長には福田赳夫が起用された。幹事長への就任を期待していた河野はこの人選で排除され、岸との対立を深めた。】


 「戦前の轍」を踏む

結局、岸の強引なやり方が、かえって「マイナス」になりました。このことは、「岸の信者」である安倍首相の「DNA」にも、作用しているように思えます。

何でも、強引に決め、「反論を許さない」安倍首相のやり方は、いずれ岸と同じ道をたどることになるでしょう。

もし、それを「阻止することができなかった」なら、日本の国民は、再び、「戦前の轍」を踏むことになりかねません。

明日は、安保改定交渉です。

(2015年12月13日)

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