2015年12月3日木曜日

社会党が分裂「サンフランシスコ両条約の衆議院で採決を前に」

<正村 戦後史(60)>
この回では、「社会党の分裂」を見ていきます。講和問題が表面化するとともに、社会党内部の路線の対立が、激しくなってきます。



一度、路線を合意したにもかかわらず、再び、内部抗争が激化してきます。これは、組織における「撲滅することが不可能な病」、「組織病」なのでしょうか。


 「社会党の分裂」

【労働運動における新たな分裂の気運は社会党の分裂と深くかかわっていた。1950年の秋から1951年にかけて、講和問題が現実政治の争点となるにつれて社会党内部の路線の対立が再び先鋭化した。

1950ね2月28日、社会党中央執行委員会は、全面講和の・中立堅持・軍事基地提供反対という、「平和3原則」を基礎とする外交方針を採択した。しかし、社会党内部にこれを不満とする動きがあり、1951年1月19~21日の第7回大会では、右派からこの外交方針を修正する提案が提出された。

修正案は、第1に、全面講和を主張するだけでなくその内容に重点をおかなければらないこと、第2に、中立堅持のためには「一定の実量的背景」を必要とするのであるから「自衛を確立することは当然である」こと、などを骨子としたものであった。

自衛のための再軍備については、「封建的軍国主義の再建」であってはならず、また「特定国家の雇い兵となって海外に派兵されてはならない」し、「国民の経済負担を圧迫してはならない」という条件が付けられていた。

修正案は、「共産党と対決するためには、社会党は、労農階級のみに偏すべきではなく、国民組織として、生産防衛、国土防衛の有機的結合のうえに再編成しなければならない」とも述べている。

・大会では、委員長には左派の鈴木茂三郎が、また、書記長には浅沼稲次郎が選出された。中央執行委員会は、委員長を含めて半数を左派が占める結果になり、右派提出の修正案は大会で否決された。

・しかし、党内における左右の勢力は伯仲していた。1951年9月の講和調印後、国会におけるサンフランシスコ両条約(平和条約と日米安全保障条約)の批准にたして社会党としてどのような態度をとるべきかが問題であった。

左派は両条約に反対投票する方針であったが、右派の大勢は平和条約賛成・日米安全保障条約反対の投票を主張した。さらに両条約賛成を主張するグループもあった。

・朝鮮戦争以後の国際情勢の現実をみると、全面講和の可能性はほとんど失われていた。こうした状況のなかでは、占領の継続よりはむしろ当面単独講和を実現して主義を回復したうえで、残された諸国との講和の可能性を追及するほうが賢明だとする見解も生まれた。

左派に属するとみられていた社会党員や周辺の理論家に一部にもそうした現実主義的意見が形成された。社会党は党内の論議を重ねたが、意見の統一は不可能であった。

そのため、平和条約調印前後の重要な政治的状況のなかで、党内闘争が激化した。

・社会党左派は、講和問題の方針の最終的確定の方法として、大会による党議決定を主張した。右派は、中央執行委員会でわずかに優位に立てると読んで執行部による決定を主張した。

結局、中央執行委員会、議員総会、中央委員会、大会を順次開催して党議決定をはかることになった。

・1951年10月5日、中央執行委員会は16対14票という僅差で右派の路線、すなわち平和条約賛成・安保条約反対の路線を決定した。委員長鈴木が棄権し、左派とみられていた中執の一人が右派の提案に賛成したためであった。

総評左派幹部は、社会党左派を支援し、両条約反対を推進する体制を固めた。10月12日、総評は社会党にたいする「呼びかけ」を発表した。そのなかで、総評は、先の中執決定は1月の第7回大会決定に反すると述べ、大会決定通りに全面講和の路線を貫くべきだと力説した。

(「乱闘騒ぎ」の党大会)
・1951年10月23日、社会党第8回臨時大会が東京の浅草公会堂で開催された。国会議員のあいだでは右派が優勢だが、地方選出代議員にあいだでは左派が優勢であった。高野事務局長ら総評幹部は、社会党左派代議員に、分裂をおそれずたたかえ、組織と資金をあげて左派を支援すると申し入れた。

大会における左派の優位が確定的となったため、右派は、10月124日、乱闘ののち会場を退出し、「統一懇談会」の名称で別に大会をもった左派は「市井の暴力団を使って大会を混乱させた」と右派を非難し、右派は「中執決定を無視し、一部容共分子に計画的策謀と外部勢力の扇動によって大会会場を支配した」と左派を攻撃した。

そうして社会党は、「左派社会党」と「右派社会党」に分裂した。サンフランシスコ両条約が衆議院で採決される2日前のことである。】


 国家の一大事を前に、分裂騒ぎ

「サンフランシスコ両条約が衆議院で採決される2日前」であったとは、話になりません。

のちに、社会党が解党することになったのも、「肯けます」。国家の一大事を前に、分裂騒ぎをしているようでは、国民の信頼を得ることなど、到底、出来ることではないからです。

しかも、こののち、社会党は、事もあろうに、自民党と政権を共にすることになるのですから、「宙ぶらりん」政党という批判も当然のことであった、と思います。

しかも、社会党は、自衛隊を「合憲」と認めることになるのですから、呆れてしまいます。

その時の党首が、村山富市氏であることも、忘れてはならないことでしょう。社会党が、自民党の「延命」に力を貸したことで、今日の状況が「出現した」のですから、「その罪」は大変大きい、と言うべきでしょう。

それにしても、「和して同ぜず」ということは、難しい。

それが個人のレベルであるなら、そう大きな問題にならないとしても、政党というような「大きな組織」の問題となると、その影響が大きいだけに、「軽視」出来ません。

「内部抗争」の結果、物事が、うまくいかない。そのことで、本来の相手を「利することになる」ということが分かっているのに、「遺憾ともし難い」というのは、日本人の特質なのでしょうか。

それとも、人類に共通の「特質」なのでしょうか。


 明日、もう一度、読んで、「上巻」を終了し、また、「下巻」に戻り、「安保改定」に入っていきます。

(2015年12月3日)

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