<正村 戦後史(75)>
今回から、沖縄返還問題を観てきます。今日は、アメリカの極東戦略と米軍沖縄基地についてです。
★ アメリカの極東戦略と米軍沖縄基地
【日本は経済面ではもはや「戦後」からははるかに遠く、先進国の地位を獲得しつつあったが、外交面ではなお幾つかの「戦後」の懸案を残していた。沖縄・小笠原返還問題、日中交回復問題、北方領土問題などがそれであった。
第2次大戦中、連合軍は領土的野心のないことを強調していたが、現実には、戦後、日本の領土の一部が日本本土から切り離され、連合軍の領土に繰り入れられていた。
・第1は、北方領土である。ソ連軍は樺太(サハリン)、千島列島(北千島)だけでなく、クナシリ、エトロフ、ハボマイ、シコタン諸島にも進駐した。サンフランシスコ平和条約では日本が千島列島および樺太(サハリン)南部を放棄することが規定されたが、ソ連はこの条約に調印しなかった。
1955~56年の日ソ国交回復交渉において日本はエトロフ島以南諸島は歴史上疑問の余地ない日本固有の領土だとして返還を要求したが、ソ連は受け入れず、外交上の懸案として長く残った。
・第2は、アメリカ軍に直接統治された沖縄、小笠原、奄美などの諸島である。サンフランシスコ平和条約は、アメリカが国連でこれらの諸島のアメリカによる信託統治を提案した場合に日本は反対しないこと、その提案が行われるまでアメリカがこれらの諸島にたいして施設権を行使することを規定した。
しかし、講和会議でアメリカとイギリスの代表がこれらの諸島の主権は日本に残されていると発言、吉田首相がこれを歓迎すると述べて「潜在的主権」の存続を確認した。
・奄美諸島については、すでに触れたように、平和条約発効後の1953年12月24日に日米両国政府間の返還協定が調印され、翌25日に実施された。
・沖縄や奄美には多数の住民が生活していたが、小笠原諸島の住民は戦中・戦後に日本軍とアメリカ軍により本土に強制的に移住させられてしまった。
この諸島は江戸時代末期に一時的にイギリスやアメリカに占領されたが、その後、日本の領土であることが国際的に承認され、戦前は東京府(都)に属していた。元島民は返還と帰島を求めていた。
小笠原は戦略的に重要ではなかったが、硫黄島は太平洋戦争の激戦地で記念碑的意味があり、返還にはアメリカ側に多少の抵抗があった。しかし、1967年11月、佐藤首相とジョンソン大統領が返還に合意し、1968年4月5日に返還協定調印、6月26日に発効となった。
・戦後最大の領土問題は沖縄問題であった。
・1960年代半ばの調査によると、沖縄諸島には90万人を超える人々が居住していた。沖縄は本土から抑圧されて差別された歴史をもっており、祖国復帰の主張も沖縄の人々に単純に受容されたものでははなかった。
しかし、アメリカの軍政は、かえって日本人としての民族意識の再確認と強化の契機となった。
・日本本土の住民は1951年の平和条約で沖縄を含む諸島の切り離しを条件とする「独立」を受容した。沖縄は、大戦末期、多数の住民の住む日本固有の領土なかで唯一地上戦の戦場になり、多数の民間人が、巻き添えになった。
その沖縄は、戦後、日本本土からいったんは見捨てられたのである。
・アメリカの沖縄への関心は領土的支配自体にはなく、中国封じ込めと東南アジア共産主義化防止のために極東戦略で枢要の位置を占める沖縄基地の確保にあった。
・1960年の日米安保条約改定のさいに、日米両国政府の交換公文で、アメリカ軍は日本本土への配備における重要な変更や日本を基地とする戦闘作戦行動などについては日本政府と事前に協議するという申し合わせが成立した。
日米関係を対等なものにしたいという日本側の要求をアメリカ側が受け入れた結果であった。日本国民のあいだに強い核兵器反対の空気があり、日本政府はアメリカ軍の日本への核兵器持ち込みに承認を与えようとはしなかった。
そのためにアメリカは、沖縄の日本返還は沖縄基地の自由使用を不可能にすると理解するようになった。
1960年代を通じてアメリカはベトナムへの軍事介入を深め、沖縄は南ベトナム爆撃の基地として使用された。こうした情勢のもとでは沖縄返還は容易に実現されそうになかった。
日本が沖縄返還を強く求めれば、アメリカは、日本がベトナム戦争を含むアメリカの行動にいっそう強い支持を与え、軍事面でいっそう積極的役割を担うよう要求することは明らかであった。
日本の保守政権は、沖縄問題については極東情勢が変化して沖縄の軍事基地としての重要性が低下するまで待つという姿勢を堅持した。アメリカの施設権に継続は認め、沖縄の住民のための日本からの援助を拡大するというのが池田内閣以後の日本の自民党政権の基本方針になった。】
★ 「固有の領土」と言うものは、存在しない
もともと、沖縄は、江戸時代に無理矢理に――いわば、武力をもって――「日本の占領下に置かれた」という歴史があります。
何かと言うと、「日本固有の領土」と言う言葉が使われますが、本来的には「固有の領土」と言うものは、存在しません。
北海道でも、それは同様です。歴史地図で江戸時代の地図をみれば、東北の上の方は、日本の領土にはなっていません。
そのころには、東北は別としても、北海道にはアイヌ民族が暮らしていました。日本は彼らを「同化」させて、北海道を日本の領土にしたのです。
ですから、もともとは、「誰の土地」でもないのです。「日本固有の領土」デアルと言う主張は、間違っているのです。
それは、米国を考えれば、よく解ります。もともと、米国に住んでいたのは、「インデアン」と呼ばれた人びとです。アメリカ人は、彼らを「駆逐」して、「インデアン」の土地を奪ったのです。
アメリカ人の誰が、これは「アメリカの固有の領土である」と言うことが出来るでしょう。「固有の領土」と言う言葉をだすと、その途端に物事は、根底から崩れていきます。
(2015年12月27日)
今回から、沖縄返還問題を観てきます。今日は、アメリカの極東戦略と米軍沖縄基地についてです。
★ アメリカの極東戦略と米軍沖縄基地
【日本は経済面ではもはや「戦後」からははるかに遠く、先進国の地位を獲得しつつあったが、外交面ではなお幾つかの「戦後」の懸案を残していた。沖縄・小笠原返還問題、日中交回復問題、北方領土問題などがそれであった。
第2次大戦中、連合軍は領土的野心のないことを強調していたが、現実には、戦後、日本の領土の一部が日本本土から切り離され、連合軍の領土に繰り入れられていた。
・第1は、北方領土である。ソ連軍は樺太(サハリン)、千島列島(北千島)だけでなく、クナシリ、エトロフ、ハボマイ、シコタン諸島にも進駐した。サンフランシスコ平和条約では日本が千島列島および樺太(サハリン)南部を放棄することが規定されたが、ソ連はこの条約に調印しなかった。
1955~56年の日ソ国交回復交渉において日本はエトロフ島以南諸島は歴史上疑問の余地ない日本固有の領土だとして返還を要求したが、ソ連は受け入れず、外交上の懸案として長く残った。
・第2は、アメリカ軍に直接統治された沖縄、小笠原、奄美などの諸島である。サンフランシスコ平和条約は、アメリカが国連でこれらの諸島のアメリカによる信託統治を提案した場合に日本は反対しないこと、その提案が行われるまでアメリカがこれらの諸島にたいして施設権を行使することを規定した。
しかし、講和会議でアメリカとイギリスの代表がこれらの諸島の主権は日本に残されていると発言、吉田首相がこれを歓迎すると述べて「潜在的主権」の存続を確認した。
・奄美諸島については、すでに触れたように、平和条約発効後の1953年12月24日に日米両国政府間の返還協定が調印され、翌25日に実施された。
・沖縄や奄美には多数の住民が生活していたが、小笠原諸島の住民は戦中・戦後に日本軍とアメリカ軍により本土に強制的に移住させられてしまった。
この諸島は江戸時代末期に一時的にイギリスやアメリカに占領されたが、その後、日本の領土であることが国際的に承認され、戦前は東京府(都)に属していた。元島民は返還と帰島を求めていた。
小笠原は戦略的に重要ではなかったが、硫黄島は太平洋戦争の激戦地で記念碑的意味があり、返還にはアメリカ側に多少の抵抗があった。しかし、1967年11月、佐藤首相とジョンソン大統領が返還に合意し、1968年4月5日に返還協定調印、6月26日に発効となった。
・戦後最大の領土問題は沖縄問題であった。
・1960年代半ばの調査によると、沖縄諸島には90万人を超える人々が居住していた。沖縄は本土から抑圧されて差別された歴史をもっており、祖国復帰の主張も沖縄の人々に単純に受容されたものでははなかった。
しかし、アメリカの軍政は、かえって日本人としての民族意識の再確認と強化の契機となった。
・日本本土の住民は1951年の平和条約で沖縄を含む諸島の切り離しを条件とする「独立」を受容した。沖縄は、大戦末期、多数の住民の住む日本固有の領土なかで唯一地上戦の戦場になり、多数の民間人が、巻き添えになった。
その沖縄は、戦後、日本本土からいったんは見捨てられたのである。
・アメリカの沖縄への関心は領土的支配自体にはなく、中国封じ込めと東南アジア共産主義化防止のために極東戦略で枢要の位置を占める沖縄基地の確保にあった。
・1960年の日米安保条約改定のさいに、日米両国政府の交換公文で、アメリカ軍は日本本土への配備における重要な変更や日本を基地とする戦闘作戦行動などについては日本政府と事前に協議するという申し合わせが成立した。
日米関係を対等なものにしたいという日本側の要求をアメリカ側が受け入れた結果であった。日本国民のあいだに強い核兵器反対の空気があり、日本政府はアメリカ軍の日本への核兵器持ち込みに承認を与えようとはしなかった。
そのためにアメリカは、沖縄の日本返還は沖縄基地の自由使用を不可能にすると理解するようになった。
1960年代を通じてアメリカはベトナムへの軍事介入を深め、沖縄は南ベトナム爆撃の基地として使用された。こうした情勢のもとでは沖縄返還は容易に実現されそうになかった。
日本が沖縄返還を強く求めれば、アメリカは、日本がベトナム戦争を含むアメリカの行動にいっそう強い支持を与え、軍事面でいっそう積極的役割を担うよう要求することは明らかであった。
日本の保守政権は、沖縄問題については極東情勢が変化して沖縄の軍事基地としての重要性が低下するまで待つという姿勢を堅持した。アメリカの施設権に継続は認め、沖縄の住民のための日本からの援助を拡大するというのが池田内閣以後の日本の自民党政権の基本方針になった。】
★ 「固有の領土」と言うものは、存在しない
もともと、沖縄は、江戸時代に無理矢理に――いわば、武力をもって――「日本の占領下に置かれた」という歴史があります。
何かと言うと、「日本固有の領土」と言う言葉が使われますが、本来的には「固有の領土」と言うものは、存在しません。
北海道でも、それは同様です。歴史地図で江戸時代の地図をみれば、東北の上の方は、日本の領土にはなっていません。
そのころには、東北は別としても、北海道にはアイヌ民族が暮らしていました。日本は彼らを「同化」させて、北海道を日本の領土にしたのです。
ですから、もともとは、「誰の土地」でもないのです。「日本固有の領土」デアルと言う主張は、間違っているのです。
それは、米国を考えれば、よく解ります。もともと、米国に住んでいたのは、「インデアン」と呼ばれた人びとです。アメリカ人は、彼らを「駆逐」して、「インデアン」の土地を奪ったのです。
アメリカ人の誰が、これは「アメリカの固有の領土である」と言うことが出来るでしょう。「固有の領土」と言う言葉をだすと、その途端に物事は、根底から崩れていきます。
(2015年12月27日)
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