土堤内 昭雄氏は、株式会社ニッセイ基礎研究所、社会研究部の主任研究員である。
思うに、この「誰もが存分に自らの能力を発揮できる」と言うのは、一体、誰を念頭に置いたものであるるのか。それが、問題である、と思うのだ。
◆ 誰もが存分に自らの能力を発揮できる"個を活かす"社会=「ハヒポス」
【前述の緊急対策には、『子育てや介護と仕事が両立しやすくなることなどにより、様々な人材が参加することで、社会に多様性が生まれる。それが労働参加率の向上だけでなく、イノベーションを通じて生産性の向上を促し、経済の好循環を強化する』とある。
即ち、社会保障という安全ネットが整備された社会では、国民は安心して働くことができるために生産性の高い社会が構築されるというのだ。
これまで私は人口減少社会への対応として、人口を増やす努力だけでなく、人々の能力を十分発揮できる社会構築の必要性を主張してきた。
サーカスの綱渡りにたとえると、安全ネットがない場合、演技者は転落のリスクを考えて8割程の能力しか発揮できないかもしれないが、安全ネットがあれば全ての能力を、あるいはそれ以上の能力を発揮するかもしれない。
社会保障という安全ネットの整備により国民の就業率とパフォーマンスが1割上昇すれば、たとえ人口が1割減少してもGDPは維持、一人当たりGDPは増加する。
「介護離職ゼロ」が目指す社会とは、国民が将来不安を感じないような生活保障に支えられた、誰もが存分に自らの能力を発揮できる"個を活かす"社会なのである。】
さらになる問題は、どんな社会かということより、そういう社会をどうやって実現するのか、ということである、と思う。
来たるべき社会がどんな社会であるかということをいくら論じようと、それを実現するには、どうすればよいかが、示されない限り、「絵に描いた餅」でしかない。
来たるべき社会がどんな社会であるかということをいくら論じようと、それを実現するには、どうすればよいかが、示されない限り、「絵に描いた餅」でしかない。
さらに言えば、それの裏付けになる財源が示される必要がある。財源のない計画は、計画倒れに終わるしかないからだ。
そもそも、GDP600兆円からして、実現困難なことだ。いや、Гなせば、成る」といいたいだろうが、それこそ「精神論」であり、戦前の発想そのものであると、いうことになろう。
今更、声高に「1億総活躍社会」などと言われなくとも、多く国民は自身で自分たちの将来を見つめている。健康な体を維持するため、運動をし、食べ物に気を配っている。
それは、高齢になっても、子どもたちの「世話にはなりたくない」と考えているからだ。子供たちに「負担をかけたくない」と思っているからである。
それなのに、「絆」などといういい加減な言葉を持ち出し、日本中に放射能をばらまいても、反省ひとつしない政府の行動こそ、問題を作り出している。
いくら健康に気を付けようとも、吸い込む空気が汚染されていれば、何もならない。水が、汚染さえていれば、健康は、体の内部から、「蝕まれて」しまう。
そもそも、人口が減少することがそんなにいけないことか。「うさぎ小屋」と揶揄される日本の住居で暮ら差ざるをえない人々も、人口が減少すれば土地があまり、広い家に住むことが出来るようになる。
そうなれば、隣近所とのいさかいも減る。
自分の庭で菜園を作り野菜を育て、新鮮な野菜を食べることが出来るようになるだろう。花壇を作って、四季折々の花を愛でることが出来るようになるだろう。
そうなれば、わざわざ、「総活躍」などといわななくても、人々は、人生を楽しみ、意味のある人生を送ることが出来るようになる、だろう。
わざわざ、少子化対策など言って、余計な財政支出をしなくも済むのである。
日本の狭い、おまけに山野多い、と国土に暮らそうと思えば、人口は6000~8000万ぐらいで十分である。
1億人もいるから、通勤電車は込み、道路は慢性渋滞を繰り返し、狭い家に住むことになる。狭くて遠くの住み、「痛僅電車」と言われるような乗り物にのり、仕事場に通うことになる。
少子化結構、高齢社会結構ではないか。
日本の田舎は、戦後、ずうっと、「高齢化社会」であった。今更、何を言っているのか、ということだ。
(2015年12月19日)
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