<正村 戦後史(61)>
今回で、「道草」を終えて、また、下巻に戻ります。今日は、講和会議と日米安全保障条約の調印、審議を見ていきます。
★ 講和会議と日米安全保障条約
【対日講和条約の米英共同草案がまとまった直後の1951年7月9日、ダレスは、吉田首相に書簡を送り、講和会議に出席してほしいこと、講和全権団の構成は「超党派的なもの」が望ましいことなどの意向を伝えた。
・社会党は、平和条約と安保条約をめぐって党内で激論中であった。講和全権への参加要請にたいしては、「平和3原則の党是により参加できない」と政府に返答した。参議院緑風会は参加の方針を決めた。
国民民主党は、三木武夫幹事長以下の野党派が反対、保守連携派が賛成という複雑な党内情勢で折衝が難航したが、結局、参加の方針を決めた。緑風会も国民民主党も、臨時国会で政府が経過説明を行うことを要求した。
8月16日から18日までの3日間の会期で臨時国会が開催された。このとき、吉田は、アメリカ軍の日本駐留は日本側から希望したものであると述べた。
・講和会議への全権委員は、主席全権吉田茂のほか、自由党の星島二郎と池田隼人、国民民主党の苫米地義三、緑風会の徳川宗敬、日銀総裁一万田尚登が任命された。一行は8月30日に東京を出発した。
・9月4日からサンフランシスコ市内オペラハウスで開催された対日講和会議は、講和問題を協議する場ではなく、調印のための儀式にすぎなかった。
・トルーマン大統領みずからこの会議に出席して演説し、対日講和は「和解」の講和であること、アメリカ国民は「パール・ハーバー」を記憶しており、両国の友好のためには努力が必要であること、アメリカの最大の関心は日本を侵略から保護するとともに日本が他国の安全を脅かさないようにするという点にあることなどを強調した。
・ソ連代表グロムイコは、中国(北京)代表の参加問題を取り上げるように迫り、ポーランドとチェコスロバキアの代表がこれに同調した。議長をつとめたアメリカのアチソン国務長官は、それは議題と関係ないと述べ、採決によって否決した。
・グロムイコは、満州、台湾を含む中国全土の北京政府の主権を認めること、樺太、千島について全面的にソ連の主権を認めること、小笠原、琉球は日本の主権の及ぶ範囲に含めること、講和発効後90日以内に連合軍は日本を撤退し、いかなる国も日本に軍事基地を置かないことなどを提案した。
グロムイコはまた、日本の軍備は自衛に必要な限度とし、地上軍15万人、海軍2・5万人、7・5総トン、空軍は戦闘機200機、輸送機など150機、兵力2万人とし、戦車200台とすることなども提案した。
・各国代表の演説を終わり、9月8日に調印式が行われた。日本を除いて51か国が会議に参加したが、ソ連、チェコスロバキア、ポーランドの3国が署名を拒否し、48か国が署名した。
・署名した国の数は多いが、連合国側に同調した中南米諸国やドイツと戦争をした関係で日本にも宣戦したヨーロッパ諸国などが多数を占めていた。日本と直接に戦火を交えた国は、アメリカ、イギリスおよび英連邦諸国、オランダなど若干の東南アジア諸国に限られていた。
中国は大陸側・台湾側のいずれに政府も招請されず、インドとビルマは、前述のように、中国代表権問題などにたいする不満を表明して会議に参加しなかった。
・平和条約調印終了後、同じ9月8日のうちに、サンフランシスコ市内のアメリカ第6軍司令部で日米安全保障条約の調印が行われた。日本側は吉田首相一人が署名、アメリカ側はアチソン、ダレスなど4人が署名した。
吉田は、平和条約以上に安全保障条約には反対の空気が強いことを考慮して、自分一人が責任を負うかたちにした。
・平和・安保両条約を審議するための臨時国会は、1951年10月10日に召集され、衆議院は10月26日、参議院は11月18日、そろぞれ多数決で両条約を承認した。
衆議院での投票は、平和条約賛成307、反対47、安保条約賛成289、反対71であった。参議院では、平和条約賛成174、反対45、安保条約賛成147、反対76であった。社会党左派(衆院16、参院30)、共産党(同22、3)、労農党(同4、5)は、両条約反対の投票をした。
社会党右派(衆院24、参院26)は、平和条約賛成、安保条約反対の投票をした。国民民主党、緑風会、小会派、無所属の議員の中にも、少数だが平和条約と安保条約に反対の投票をするものがいた。
・11月28日、日本政府は平和条約批准書をアメリカ政府に寄託した。
・12月10日にダレスが訪日し、吉田首相と3回にわたり会談した。ダレスは、日本政府が北京市府ではなく台湾政府と国交を結ぶよう強く要求した。ダレスは、日本政府がそうした態度を明示しなければ平和条約のアメリカ上院での承認も危ぶまれると述べた。
吉田は、12月24日、ダレスにあてた書簡で中国問題の処理方針を明らかにした。吉田は、究極においては中国との全面的政治関係を希望するが、現実には台湾と正常な関係を再開する条約を結ぶ用意があること、ただしこの条約の条項は台湾政府支配下の領域にのみ適用する考えであることを明らかにした。
吉田はまた、中国(北京政府)は、現状では国連によって侵略者として非難されており、日本として平和条約を結ぶ意図はないと確約した。この吉田書簡は、1952年1月16日に日本政府によって公表された。
・1952年1月26日、アメリカからラスク特使が来日し、日米安保条約に関連する行政協定の交渉が開始された。野党は行政協定反対の共同声明を出し、国会での審議を提案したが、2月に衆参両院で否決された。
2月28日、行政協定が調印され、安保条約体制の基礎が固められた。
このときの行政協定は、国会の審議・承認なしに安保条約発効と同時に発効することになった。
・アメリカ上院が対日平和条約と日米安全保障条約を承認したのは1952年3月20日である。】
★ 「終戦記念日」は、4月28日
このサンフランシスコ両条約は、1952年4月28日に発効することになります。日本占領の終結です。
これで、1945(昭和20年)9月2日に始まった連合国により日本占領が、終了しました。
しかし、それは、同時に、米国による「占領の継続」でもありました。
余談ですが、――世間で言われていることとは違い――いわゆる「終戦記念日」は、サンフランシスコ両条約が発効した4月28日ということになります。
※ 日にちが、飛んだことをお詫びします。
(2015年12月6日)
今回で、「道草」を終えて、また、下巻に戻ります。今日は、講和会議と日米安全保障条約の調印、審議を見ていきます。
★ 講和会議と日米安全保障条約
【対日講和条約の米英共同草案がまとまった直後の1951年7月9日、ダレスは、吉田首相に書簡を送り、講和会議に出席してほしいこと、講和全権団の構成は「超党派的なもの」が望ましいことなどの意向を伝えた。
・社会党は、平和条約と安保条約をめぐって党内で激論中であった。講和全権への参加要請にたいしては、「平和3原則の党是により参加できない」と政府に返答した。参議院緑風会は参加の方針を決めた。
国民民主党は、三木武夫幹事長以下の野党派が反対、保守連携派が賛成という複雑な党内情勢で折衝が難航したが、結局、参加の方針を決めた。緑風会も国民民主党も、臨時国会で政府が経過説明を行うことを要求した。
8月16日から18日までの3日間の会期で臨時国会が開催された。このとき、吉田は、アメリカ軍の日本駐留は日本側から希望したものであると述べた。
・講和会議への全権委員は、主席全権吉田茂のほか、自由党の星島二郎と池田隼人、国民民主党の苫米地義三、緑風会の徳川宗敬、日銀総裁一万田尚登が任命された。一行は8月30日に東京を出発した。
・9月4日からサンフランシスコ市内オペラハウスで開催された対日講和会議は、講和問題を協議する場ではなく、調印のための儀式にすぎなかった。
・トルーマン大統領みずからこの会議に出席して演説し、対日講和は「和解」の講和であること、アメリカ国民は「パール・ハーバー」を記憶しており、両国の友好のためには努力が必要であること、アメリカの最大の関心は日本を侵略から保護するとともに日本が他国の安全を脅かさないようにするという点にあることなどを強調した。
・ソ連代表グロムイコは、中国(北京)代表の参加問題を取り上げるように迫り、ポーランドとチェコスロバキアの代表がこれに同調した。議長をつとめたアメリカのアチソン国務長官は、それは議題と関係ないと述べ、採決によって否決した。
・グロムイコは、満州、台湾を含む中国全土の北京政府の主権を認めること、樺太、千島について全面的にソ連の主権を認めること、小笠原、琉球は日本の主権の及ぶ範囲に含めること、講和発効後90日以内に連合軍は日本を撤退し、いかなる国も日本に軍事基地を置かないことなどを提案した。
グロムイコはまた、日本の軍備は自衛に必要な限度とし、地上軍15万人、海軍2・5万人、7・5総トン、空軍は戦闘機200機、輸送機など150機、兵力2万人とし、戦車200台とすることなども提案した。
・各国代表の演説を終わり、9月8日に調印式が行われた。日本を除いて51か国が会議に参加したが、ソ連、チェコスロバキア、ポーランドの3国が署名を拒否し、48か国が署名した。
・署名した国の数は多いが、連合国側に同調した中南米諸国やドイツと戦争をした関係で日本にも宣戦したヨーロッパ諸国などが多数を占めていた。日本と直接に戦火を交えた国は、アメリカ、イギリスおよび英連邦諸国、オランダなど若干の東南アジア諸国に限られていた。
中国は大陸側・台湾側のいずれに政府も招請されず、インドとビルマは、前述のように、中国代表権問題などにたいする不満を表明して会議に参加しなかった。
・平和条約調印終了後、同じ9月8日のうちに、サンフランシスコ市内のアメリカ第6軍司令部で日米安全保障条約の調印が行われた。日本側は吉田首相一人が署名、アメリカ側はアチソン、ダレスなど4人が署名した。
吉田は、平和条約以上に安全保障条約には反対の空気が強いことを考慮して、自分一人が責任を負うかたちにした。
・平和・安保両条約を審議するための臨時国会は、1951年10月10日に召集され、衆議院は10月26日、参議院は11月18日、そろぞれ多数決で両条約を承認した。
衆議院での投票は、平和条約賛成307、反対47、安保条約賛成289、反対71であった。参議院では、平和条約賛成174、反対45、安保条約賛成147、反対76であった。社会党左派(衆院16、参院30)、共産党(同22、3)、労農党(同4、5)は、両条約反対の投票をした。
社会党右派(衆院24、参院26)は、平和条約賛成、安保条約反対の投票をした。国民民主党、緑風会、小会派、無所属の議員の中にも、少数だが平和条約と安保条約に反対の投票をするものがいた。
・11月28日、日本政府は平和条約批准書をアメリカ政府に寄託した。
・12月10日にダレスが訪日し、吉田首相と3回にわたり会談した。ダレスは、日本政府が北京市府ではなく台湾政府と国交を結ぶよう強く要求した。ダレスは、日本政府がそうした態度を明示しなければ平和条約のアメリカ上院での承認も危ぶまれると述べた。
吉田は、12月24日、ダレスにあてた書簡で中国問題の処理方針を明らかにした。吉田は、究極においては中国との全面的政治関係を希望するが、現実には台湾と正常な関係を再開する条約を結ぶ用意があること、ただしこの条約の条項は台湾政府支配下の領域にのみ適用する考えであることを明らかにした。
吉田はまた、中国(北京政府)は、現状では国連によって侵略者として非難されており、日本として平和条約を結ぶ意図はないと確約した。この吉田書簡は、1952年1月16日に日本政府によって公表された。
・1952年1月26日、アメリカからラスク特使が来日し、日米安保条約に関連する行政協定の交渉が開始された。野党は行政協定反対の共同声明を出し、国会での審議を提案したが、2月に衆参両院で否決された。
2月28日、行政協定が調印され、安保条約体制の基礎が固められた。
このときの行政協定は、国会の審議・承認なしに安保条約発効と同時に発効することになった。
・アメリカ上院が対日平和条約と日米安全保障条約を承認したのは1952年3月20日である。】
★ 「終戦記念日」は、4月28日
このサンフランシスコ両条約は、1952年4月28日に発効することになります。日本占領の終結です。
これで、1945(昭和20年)9月2日に始まった連合国により日本占領が、終了しました。
しかし、それは、同時に、米国による「占領の継続」でもありました。
余談ですが、――世間で言われていることとは違い――いわゆる「終戦記念日」は、サンフランシスコ両条約が発効した4月28日ということになります。
※ 日にちが、飛んだことをお詫びします。
(2015年12月6日)
0 件のコメント:
コメントを投稿