2015年12月3日木曜日

東電事故で和解「因果関係を認めるも、”謝罪”の文言を入れず」

弁護側によると、東電は、因果関係を認めた、という。それなら、何故、和解という判断になったのか。東電の原発事故の影響で、仕事を奪れた福島の酪農家の遺族が起こした訴訟で、和解が成立した。しかし、東電は、”謝罪”の文言を入れるのを、拒否をした。「遺書」には、「原発さえなければと思います」
と書き残されていた。

 和解が成立=「スポーツ報知」の記事
東京電力福島第1原発事故で将来を悲観して自殺した福島県相馬市の酪農家・菅野重清さん=当時(54)=の妻バネッサ・アボルドさん(37)ら遺族が、東電に約1億2800万円の損害賠償を求めた訴訟は1日、東京地裁(中吉徹郎裁判長)で和解が成立した。
 弁護団によると、東電が遺族に和解金を支払うとの内容。詳しい額は開示しないことになっているが、数千万円とみられる。遺族は和解文書に謝罪の文言を求めたが、東電が拒否し、盛り込まれなかった。】

★ 東電、謝罪を拒否
「自らの命を断った」被害者の菅野さんは、東電の事故の影響で酪農家としての生計を立てて行くことができなくなった。前途を悲観、亡くなった。
和解が成立したが、東電は和解文に、謝罪の言葉を盛り込むことを、拒んだ。相変わらずの態度である。謝罪の言葉を盛り込むことをしないということは、東電は悪くない、と考えているということか。

ところが、「スポーツ報知」の記事は、「弁護団は和解後『自殺と事故の因果関係を認めたと評価できる内容で、金額も一定の水準に達した』と話した。」と書いている。
「自殺と事故の因果関係を認めた」のに、何故、「勝訴」という判決を出さないで、和解という方法を選択したのか。よく解らない。

東電側が、我々は「悪くない」と主張し、あくまでも、争う姿勢を示した。それで被害者側が、裁判が長引くのを恐れ、妥協した。そういう構図であるのなら、分からないでもない。

東電が「非を認めているのである」、であるに何故、和解をしなければならないのか。それにしても、日本の裁判というのは、あまりに「弱い者」に冷たい。強者に「有利」なようにできている、と思わざるをえない。
何かといえば、すぐに「和解」を勧める。これで本当に司法としての役目を、十分に果たしていると言えるのか。大いに、疑問である。
また、東電は「悪くない」と考えているのなら、和解に応じる必要はないはずだ。東電に非はないと言うのなら、堂々と戦うべきだろう。徹底的に、その主張を押し通すべきであろう。
被害者側も、――このようなことを言うのは、過酷なことかも知れないが――いい加減なことで妥協せずに、最後まであきらめず、裁判を続けて欲しかった。そうすれば、他の裁判でも、和解という方法で裁判を終わらせるようなことは、なくなっていくだろう。
これは、弁護士側の問題でもある、と思う。おそらく、弁護士側が被害者側の遺族に和解するように、勧めたのでないかと思う。こういう弁護士側の態度も、問題である。
こういう裁判を聴く、日本の民主主義は、まだまだ、成熟してはいない。未熟なままだ、私は感じる。前近代的裁判が横行していると、感じる。
その意味で日本の社会も、日本の国民も、民主主義を身に付けているというには、ほど遠い現状にある、と判断せざるを得ない。これでは、とうてい、日本の社会に、二大政党制が実現するようになるとは思えない。
話が飛躍したが、私はそう思うのである。
(2015年12月3日)

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