2015年12月29日火曜日

森田ブログから「安倍首相の政治手法は、狂気の沙汰」

安倍首相の政治手法は、狂気の沙汰である、と森田氏は、自身のブログにおいて、批判する。相変わらず、鋭い指摘だ。長い記事であるが、是非、森田氏のブログに行って読んで頂きたい。
下手な解説はしないで、感想を少し書いておきたい。〈(1)は、森田氏のブログからの引用である。〉

1) 安倍首相の政治手法は狂気の沙汰

安倍総理が裏で糸を引いていることは間違いないと私は見ています。こんな「新聞広告」のような異常行為の底にあるのは、自分は絶対に正しいという狂気、異論を持つ者の存在を絶対に許さないという狂気です。

 戦後、今まではこんな言論弾圧のような異常行為はありませんでした。第一次世界大戦、第二次世界大戦をくぐり抜けてきた戦後の宰相たちは、戦前の反省を骨身に沁みて感じていたからです。本来、権力者は、多様な言論の存在によって自らの政治を客観的に確認することができます。ところが戦前は言論弾圧の結果、傲慢になった権力者が自分の姿を見失い、強権的・独善的・盲目的になった。その果てに政治権力は暴走し、戦争をし、国を誤ってしまったのです。

 その反省から戦後の宰相たちは寛容性や忍耐力を持って、権力批判を含む言論の自由を大切にしていました。政治権力を批判できる社会は健全であり、それができない社会は不健全だ。確かにガンガン批判されるのは不愉快だが、それに耐えることが政治家の務めだ。こういう考え方が常識でした。もちろん若手の中には跳ね上がった者もいましたが、「派閥の親分が批判されたからと言って、言論に圧力をかけてはならん」と諌めるような風潮が自民党内にありました。言論弾圧には非常に慎重かつ抑制的だったのです。

 田中角栄は「俺の悪口を書いている者も、日本国民の一人だ。それで暮らしていけるなら、それも結構じゃないか。日本は平和な国だよ」と大らかに笑っていました。

 ところが、安倍総理のやり方には「俺の悪口を書いている者は非国民だ。一刻も早く黙らせろ。いつまでも平和な国だと思うなよ」という感じがあります。明治から大正、昭和、平成と時代を下るにつれ、戦争の教訓を理解できなくなり、神経質になっていった。数十年前だったら、岸井キャスターの発言が問題になることはなかったでしょう。このように一テレビキャスターの一言に政権が神経質になっているのは、あまりにも病的です。】

2) 旧態依然の政治手法

上の論に、余計な解説は必要としない、であろう。森田 実氏の分析の通りであり、正鵠を射たものである。

この投稿は、森田氏にしてはめずらしく長い文になっている。それだけ、森田氏が、今の安倍首相の政治手法に危機感を持っている、と言うことがよく解る。

橋本氏が「維新」の名を借りて、新しい政治をすると言いながら、やっていることは、昔ながらの「料亭政治」に他ならない。このことを、彼が意識しているかどうかは別として、事実はそうだ。

そして、それは安倍首相も同じである。また、それは歴代の自民党政権や自民党が行ってきたことでもある。もっと言えば、明治時代の政治家がやってきたことだ。

その意味においては、今日の安倍首相や自民党の政治は明治時代から、少しも進歩していない。こういうように言うことが出来るだろう。

(2015年12月29日)