<正村 戦後史(59)>
今日は、吉田首相の「曲学阿世の輩」発言と、南原総長の反論。アメリカ軍の日本駐留という路線が決定的になった経過について、読んでいきます。
全面講和の主張は、退けられ、片面講和が決定的になりました。それは、冷戦、朝鮮戦争、中国での革命などが影響してのことでした。
★ 「曲学阿世の輩」
【吉田首相は、1950年5月3日、与党自由党の両院議員秘密総会において「南原繁東大総長のいう全面講和論は”曲学阿世”の輩の言葉に過ぎない」と発言した。それは一般に報道され、知識層の強い反発を買った。
南原東大総長は、5月6日、とくに記者会見を行い「この種の極印は、戦前に日本の軍部が学者の批判を攻撃するために使ったものと同じで、それ自体、民主政治の危機をはらむものである」と述べ、自分の立場を次のように説明した。
「私がワシントンの会議で出会った人びとや、知人のイギリス人やカナダ人で我々の意見に賛同する人は少なくないし、英連邦の運営委員会でもアジア代表は単独講和に反対していると伝えられている。
また、中ソ側からも具体的な提案があるかも知れない。アメリカにおいても、今後、対日講和と日本の安全の国際的保障について最善の努力が払われると考えられ、なお幾変転があるものと予想される。
こうした複雑で変移する国際情勢のなかにおいて、現実を理想に近接融合させるために努力することこそ政治と政治家の任務であるのに、初めから曲学阿世の輩の空論として全面講和や衛星中立論を封じる去ろうとするところに日本の民主政治の危機がある。」
・南原が指摘したように、1950年の前半までの時期においては、国際情勢も流動的に見えた。もちろん、米ソ冷戦は動かしがたい現実となっていたし、中国革命の成功はアメリカに大きな打撃を与えていた。
しかし、中国革命後のアメリカの極東政策は再編成に過程にあり、方向を模索していたのである。北京政権成立後アメリカと中国の双方が国交成立に関心をもち、非公式に接触を試みるという状態がしばらくつづいた。
1950年1月5日位には、トルーマン大統領が台湾にたいして軍事的には関与しないと言明した。中国共産軍の台湾解放戦争には介入しないという意味であった。
ダレスが1950年6月6日に作成した対日講和第1次案でも、1950年秋に予定された対日講和予備会議には北京・台湾両政府を招請し、意見が一致すれば一票として扱うという折衷的構想がしめされていた。
・こうした情勢のなかでは全面講和と日本の中立・非武装を求める意見は必ずしも現実離れの空論とはいえなかった。すでに触れたように、1949年夏には、アメリカ政府内部でも、本来は対ソ封じ込め政策の提唱者であったケナン自身によって日本の非武装中立を前提とする全面講和案が構想されている。
しかし、大勢としては、アメリカ政府首脳の政策は、ケナンらのいう政治的・経済的な面からの共産主義の予防という意味の封じ込めよりも、軍事的防衛体制確立に重点をおいたものへと変化しつつあった。
ケナンの日本中立化構想は採用されず、アメリカ軍の日本駐留という路線が固まりつつああった。アメリカ政府はすでに中国大陸を喪失し、朝鮮の放棄も考慮しつつあるという状況のなかで、日本を極東における同盟者として、また、有効な軍事基地として、確保しておこうという意向を固めていた。
共産主義側の対応は、アメリカの政策を決定的に硬化させる方向に動いた。ソ連は、日本共産党にたいして反米武力革命戦略の採用を要求した。中国共産党もソ連の政策を指示し、日本共産党の平和革命路線に批判を浴びせた。
労働運動指導の失敗からすでに大衆組織における政治的基盤を弱体化させつつあった日本共産党は、コミンフォルム批判を契機に党内の対立と混乱が表面化したが、党の主導権を掌握した徳田球一らのグループは武力革命方式へと戦略転換を遂行した。
戦後、自由主義・民主主義を導入し、比較的信頼度の高い同盟国の仕立てあげてきた日本だけは不用意に共産主義者の手に渡してはならないというのが、アメリカ政府首脳の強固な立場であった。そのため、ソ連の反対を押し切ってでも、日本再軍備とアメリカ軍の駐留を前提とする講和を実現する以外ににないというのがアメリカの基本政策になった。
このような冷戦の論理にもとずくアメリカの対日政策は、1950年6月25日の北朝鮮軍の全面侵攻によって、まったく再検討の余地のないものになった。この時点以後、全面講和・日本非武装・外国軍隊撤退というかたちの対日戦後処理の可能性は事実上失われた。】
★ 「言語道断」の発言
曲学阿世(きょくがくあせい)とは、「真理を曲げて世の人の気に入るような説を唱え、時勢に投じようとすること」を言います。
南原繁は、東大総長であり、貴族院議員であり、勅撰議員でもありました。その南原にたいして、「輩よばわり」するとは、「言語道断」です。
しかし、これは、今日の自民党や安倍政権においても、この傾向は、全然変わっていません。
自分たちの都合の悪い「主張をする」人々を、「中傷」し、自分たちに都合のいいことを言う人間は、「優遇する」という姿勢は、一向に改まってはいません。
あるいは、「その主張」を、重要視する、と言う傾向は、変わっていません。
これは、自民党の「悪しき伝統」のように思えてなりません。
※ 後、2回で、「下巻」に戻ります。
(2015年12月2日)
今日は、吉田首相の「曲学阿世の輩」発言と、南原総長の反論。アメリカ軍の日本駐留という路線が決定的になった経過について、読んでいきます。
全面講和の主張は、退けられ、片面講和が決定的になりました。それは、冷戦、朝鮮戦争、中国での革命などが影響してのことでした。
★ 「曲学阿世の輩」
【吉田首相は、1950年5月3日、与党自由党の両院議員秘密総会において「南原繁東大総長のいう全面講和論は”曲学阿世”の輩の言葉に過ぎない」と発言した。それは一般に報道され、知識層の強い反発を買った。
南原東大総長は、5月6日、とくに記者会見を行い「この種の極印は、戦前に日本の軍部が学者の批判を攻撃するために使ったものと同じで、それ自体、民主政治の危機をはらむものである」と述べ、自分の立場を次のように説明した。
「私がワシントンの会議で出会った人びとや、知人のイギリス人やカナダ人で我々の意見に賛同する人は少なくないし、英連邦の運営委員会でもアジア代表は単独講和に反対していると伝えられている。
また、中ソ側からも具体的な提案があるかも知れない。アメリカにおいても、今後、対日講和と日本の安全の国際的保障について最善の努力が払われると考えられ、なお幾変転があるものと予想される。
こうした複雑で変移する国際情勢のなかにおいて、現実を理想に近接融合させるために努力することこそ政治と政治家の任務であるのに、初めから曲学阿世の輩の空論として全面講和や衛星中立論を封じる去ろうとするところに日本の民主政治の危機がある。」
・南原が指摘したように、1950年の前半までの時期においては、国際情勢も流動的に見えた。もちろん、米ソ冷戦は動かしがたい現実となっていたし、中国革命の成功はアメリカに大きな打撃を与えていた。
勅撰議員の南原繁 |
1950年1月5日位には、トルーマン大統領が台湾にたいして軍事的には関与しないと言明した。中国共産軍の台湾解放戦争には介入しないという意味であった。
ダレスが1950年6月6日に作成した対日講和第1次案でも、1950年秋に予定された対日講和予備会議には北京・台湾両政府を招請し、意見が一致すれば一票として扱うという折衷的構想がしめされていた。
・こうした情勢のなかでは全面講和と日本の中立・非武装を求める意見は必ずしも現実離れの空論とはいえなかった。すでに触れたように、1949年夏には、アメリカ政府内部でも、本来は対ソ封じ込め政策の提唱者であったケナン自身によって日本の非武装中立を前提とする全面講和案が構想されている。
しかし、大勢としては、アメリカ政府首脳の政策は、ケナンらのいう政治的・経済的な面からの共産主義の予防という意味の封じ込めよりも、軍事的防衛体制確立に重点をおいたものへと変化しつつあった。
ケナンの日本中立化構想は採用されず、アメリカ軍の日本駐留という路線が固まりつつああった。アメリカ政府はすでに中国大陸を喪失し、朝鮮の放棄も考慮しつつあるという状況のなかで、日本を極東における同盟者として、また、有効な軍事基地として、確保しておこうという意向を固めていた。
共産主義側の対応は、アメリカの政策を決定的に硬化させる方向に動いた。ソ連は、日本共産党にたいして反米武力革命戦略の採用を要求した。中国共産党もソ連の政策を指示し、日本共産党の平和革命路線に批判を浴びせた。
労働運動指導の失敗からすでに大衆組織における政治的基盤を弱体化させつつあった日本共産党は、コミンフォルム批判を契機に党内の対立と混乱が表面化したが、党の主導権を掌握した徳田球一らのグループは武力革命方式へと戦略転換を遂行した。
戦後、自由主義・民主主義を導入し、比較的信頼度の高い同盟国の仕立てあげてきた日本だけは不用意に共産主義者の手に渡してはならないというのが、アメリカ政府首脳の強固な立場であった。そのため、ソ連の反対を押し切ってでも、日本再軍備とアメリカ軍の駐留を前提とする講和を実現する以外ににないというのがアメリカの基本政策になった。
このような冷戦の論理にもとずくアメリカの対日政策は、1950年6月25日の北朝鮮軍の全面侵攻によって、まったく再検討の余地のないものになった。この時点以後、全面講和・日本非武装・外国軍隊撤退というかたちの対日戦後処理の可能性は事実上失われた。】
★ 「言語道断」の発言
曲学阿世(きょくがくあせい)とは、「真理を曲げて世の人の気に入るような説を唱え、時勢に投じようとすること」を言います。
南原繁は、東大総長であり、貴族院議員であり、勅撰議員でもありました。その南原にたいして、「輩よばわり」するとは、「言語道断」です。
しかし、これは、今日の自民党や安倍政権においても、この傾向は、全然変わっていません。
自分たちの都合の悪い「主張をする」人々を、「中傷」し、自分たちに都合のいいことを言う人間は、「優遇する」という姿勢は、一向に改まってはいません。
あるいは、「その主張」を、重要視する、と言う傾向は、変わっていません。
これは、自民党の「悪しき伝統」のように思えてなりません。
※ 後、2回で、「下巻」に戻ります。
(2015年12月2日)
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