2014年9月19日金曜日

LS:朝日の「誤報騒動」と「掲載拒否問題  西日本新聞の社説が、愁眉_

朝日の「誤報騒動」と広告や記事の掲載拒否に関して、この記事が、一番冷静な判断をしているように思う。
それにしても、朝日を批判し、避難する人々が、「河野談話」に触れないのが不思議だ。


1) 西日本新聞の社説の記事より__

朝日新聞の、この度の報道に関する、社説である。
長いが、全文を引用させてもらった。

まず、新聞の役目は、「権力の監視を怠らず、疑問や過ちがあれば堂々と批判、追及することも重要な責務」と述べる。

また、このことは、「多様な言論を認め、尊重してこそ」初めて、「表現の自由に立脚したジャーナリズム」が成り立つという。

さらに、「言論機関が他の言論機関を封殺するかのような動きも、また自殺行為であろう」と言い、多くのメディアの動きを批判する。

その上で、「メディア同士が相手を追い落とすことにエネルギーを費やすだけであれば、報道への信頼は得られない」と述べる。

この度の事で、「報道機関全体の姿勢が問われている」と結んでいる。


『報道機関の使命とは何か。そして、その責任がいかに重いか。本紙もメディアの一員として今回の事態をしっかりと受け止めたい。


 朝日新聞が過去の慰安婦問題の記事に続いて、東京電力福島第1原発事故をめぐる吉田昌郎元所長の聴取結果書(吉田調書)に関する記事を取り消し、社長自らが謝罪の記者会見を開いて進退に言及する事態へと追い込まれた。

 誤報があれば、それを素直に認めて速やかに訂正し、読者や関係者におわびする。その当然の作業が後手後手に回り、むしろ謙虚さを欠いた対応が朝日新聞への不信感を増幅させた印象は否めない。

二つの報道が結果として内外に与えた影響の大きさからみても、責任は重いと言わざるを得ない。

 同時に、朝日新聞が陥った一連の苦境から何を教訓として学び取るか。それは本紙を含めた報道機関全体に突き付けられた問題であると認識しなければならない。

 ▼メディアの自殺行為

 メディアは取材のアンテナを内外に張り巡らせ、国民の知る権利にこたえるべく、さまざまな情報を発掘、発信している。そこでは単なる情報の垂れ流しは許されない。記事は真実に裏打ちされたものでなければならない。

言うまでもなく、権力の監視を怠らず、疑問や過ちがあれば堂々と批判、追及することも重要な責務である。

 遅きに失したとの指摘は免れないが、朝日新聞が過去の韓国・済州島での“慰安婦狩り”証言を検証し、虚偽と結論付けたこと自体は真実の追求である。

「吉田調書」に関しては、東電社員らが所長命令に反して撤退したとの記事を取り消す結果となったものの、隠れた調書の存在を知らしめ、政府を公表へと動かした点で言えば、新聞の責務と合致する。

 問題は取材する側とされる側の立場が入れ替わったときである。今回でいえば、メディア自らが過ちを犯し、批判を浴びた場合にどう対処するか。一連の対応の中で最も朝日新聞を窮地に追い込んだのは、同紙に過去の記事の取り消しと併せて「速やかな謝罪を」と謙虚な姿勢を促した池上彰氏のコラムの掲載を拒んだことである。

 言論機関が自らへの批判や注文に耳を貸さず、都合が悪いことは掲載しない-という姿勢であれば自殺行為に等しい。多様な言論を認め、尊重してこそ、表現の自由に立脚したジャーナリズムが成り立つのは自明のことである
 朝日新聞はいったん拒んだコラムを最終的には掲載した。そのこと自体が結果として、問題の深刻さをあぶり出す形になった。

 ▼謙虚さがあってこそ

 報道機関は当然ながら万能ではない。細心の注意を払っていても取材に甘さが生じるなどして事実関係を誤ることがある。

情報の価値判断を誤り、独善的な報道に陥ることもある。本紙も例外ではない。もちろん、万能でないことは誤報の言い訳にはならない。

 しかし、その分謙虚でなくてはならない。事実関係の確認を繰り返す地道な作業がいかに大切か、そして報道が社会に与える影響がいかに大きいか。ここをわきまえねばならないと痛感する。

 本紙は九州を基盤とするブロック紙であり、地域に根差した紙面づくりを進めている。テーマによっては通信社に依拠した報道にならざるを得ない部分もある。

 それでも、報道機関に求められる基本姿勢に変わりはない。その意味で今回の問題を座視することなく、「他山の石」としたい。

 一部の新聞や週刊誌などでは、朝日新聞への厳しい批判が繰り返されている。そこに行き過ぎはないか言論機関が他の言論機関を封殺するかのような動きも、また自殺行為であろう。

今回問題となった記事がどれだけ日本の国益を損ねたのか。単なる誤報とは質が異なる、という点は問われるべきである。ただ、メディア同士が相手を追い落とすことにエネルギーを費やすだけであれば、報道への信頼は得られないだろう。

 朝日新聞は今後、誤報の経緯やそれが内外にもたらした影響などを第三者組織に委ねて詳しく検証し、結果を速やかに公表するとしている。その約束をきちんと果たしてほしい。

われわれも、その動きを冷静に受け止め、新聞の役割と責任を見つめ直さなければならない報道機関全体の姿勢が問われていることを肝に銘じたい。』=西日本新聞 9/13
 

2) よく書かれた社説である

少し、古い記事である。
だが、この社説に書かれていることは、時間がたっても、色あせずに残る事であろう。

社説の内容については、解説は、必要がないであろう。
私も、また、同じ意見である。

ここでは、他の事に触れたい。
それは、例の「河野談話」についてである。

多くの「メディア」、ネットを通じて朝日を批判する人々は、何故、安倍首相や菅長官を、批判しないのであろうか。

朝日の「慰安婦誤報問題」の記事訂正をもって、「慰安婦」の問題が「なかった」というのであれば、朝日を攻める前に、彼らを批判するべきではないのか。

もし、仮に、朝日の「慰安婦誤報問題」の記事の訂正をもって、「慰安婦」の問題がなかった、というのであれば、安倍政権は、直ちに、「河野談話」を取り消す声明を、世界に向かって、発信するべきであろう。

その事をしない政府をこそ、攻撃するべきだろう。

安倍首相や菅長官は、「河野談話の見直しはしない」と明言している。
先日も、自民党の谷垣幹事長は、「わたしの見解は、菅長官と同じである」と述べたばかりだ。

つまり、安倍首相や菅長官、自民党の谷垣幹事長は、「慰安婦」の問題については、否定は「していない」し、今後も「見直さない」、と言っているのである。

だから、朝日の誤報が「あろうとなかろう」と、「慰安婦」の問題が「なくなった」わけではない。 

朝日が、世界に向けて「誤報を発信」した。
その事で、日本の威信が傷ついた。

朝日は、世界に向けて、取り返しのつかない事をしてくれた。
間違ったことを報道して、日本人を、日本国を貶めた。

そのように批判するのなら、それが「間違い」がであった、というのなら、その誤解と解くべく、世界に向けて、何が正しい事であるのかを、説明をするべきだろう。

それこそ、お得意の閣議決定をすれば、すぐにでも、できる事であろう。

安倍政権が、そうしない以上は、「河野談話」は生きているのであり、世界の人々は、日本に対する認識を改めることはないであろう。

(2014/9/19)