改題され新たに出版された 『田中角栄の遺言』 帯に推薦文を書いているのは、 弟子の宮台真司氏。 |
金権政治といえば、田中角栄。
果たして、この定義は、正しいのか、間違っているのか。
そもそも、このことは、市民道徳と政治道徳の違いを理解しないことからくる、誤解なのではないか。
政治家における政治道徳を、市井(しせい)の人々が、市民道徳で
測ろうとすることに、誤解される原因があるのではないか。
角栄の金権政治は、すべてにおいて、間違っていたのか。
もし、そうでないとしたら、何処に問題があったのか。
金権政治と言えば、すべてにおいて、許されないことなのか。
この事を、徹底して、考えてみたい、というのが、今回のテーマになっている。
『田中角栄の遺言』の読書ノートの、2回目を投稿する。
1) 目次__。
第三章 果たして金権政治は”悪”か
ーーデモクラシーは、膨大なコストをかけて購うもの
日本の賄賂は忠義宣言
賄賂は特殊な人間関係確立のための触媒
有能な金権政治家の条件
田沼意次と田中角栄
田中金脈政治の構造
腐敗の度合いの研究こそ急務
第4章 政治家の「徳」とは何か
ーー『運命を下僕にする力』こそ為政者の要件
孔子は政治家・桓公を評価した
ジョン・ウェインの役割
マキャベェリズムは悪魔の囁きか
政治を倫理から解放したマキャベェリ
為政者の要件「ビィルトウ」とは何か
運命を下僕に出来るのが政治家
運命に守られていたナポレオン
「風は勇者の念ずる方向へ吹く」
運命を破る力こそがビィルトウ
天使は超自然現象をも制御できる
変化する状況への適応能力こそビィルトウ
2) 我が国においては、賄賂を生む土壌が構造的
博士は、我が国の政治の金権体質には、特別なものがあると述べる。
それは何か。
「金権体質は「数は力」である立憲政治の負の遺産であると述べた。それは世界の政治史を見渡せば、紛れもない事実である。
だからと言って、日本における”田中金権政治”の現出は、立憲政治発達過程の一現象であり、珍しくもなんともないと、簡単に片付けるわけにはいかない。
日本政治の金権体質には、他国のそれと同断に論ずることの出来ない重要な特徴があるからだ。我が国においては、わいろを生む土壌が構造的なのである。重要なのは、この事だ。」
このように述べて、その”体質”とでもいうべきものについて、分析する。
そして、さらに、小室博士は、次のように言う。
「角栄の金権政治の本質がいったい何であったのか。政治家はもう一度原点に戻って学ぶべきである。資本主義が未発達なこの国で、角栄の手法を採らずに何事とかをせよ、というのは不可能に近いのだ。」
小室博士は、その事を学ぶ手立てとして、田沼意次を取り上げる。
現代における金権政治の代表が田中角栄であれば、金権政治の代表は、賄賂といえるであろう。
賄賂といえば、田沼意次。
田沼意次といえば、賄賂である。
田沼意次こそ、賄賂の権化だ。
その、田沼意次について検討した後で、次のように述べる。
「贈収賄は悪いに決まっている。しかし、それは、畢竟、市民道徳にすぎない。政治指導者(君主)の道徳は、これとは違う。それは、徳(生命力の発揮。英語のvirtue)によって国民の経済生活を確保することにつきる。政治道徳を行うためならば市民道徳を蹂躙してもよい。
勿論、政治家と言えども、その他の場合には、市民道徳を守らなければならない。「市民道徳を蹂躙してもよい」といっても、厳格な条件が付されていることに注意されたい。
角栄は超人的能力を有し、唯一人の政治家であり、唯一人の外交家である。角栄が日本の経済発展にいかに大きな功績を遺したか、これを否定するものはいないだろう。・・・・
日本人的の能力から抜きんでた、これぞまさに政治指導者。この政治指導者が徳を行うとき、何者かこれを阻害するべきか。…(金丸のごときは)外交を知らず、法を知らず、経済を知らない。政治家の知識として最重要なるものをことごとく欠くではないか。・・・」
では、今日の日本における政治家の中で、角栄に匹敵する政治家はいるか!
残念ながら、何処を見渡しても、そのような政治家は、見当たらない。
皆無である。
ここに、今日の日本の政治的悲劇がある。
3) 政治家が、法を作り、社会の秩序を保もつべく奮闘しているか
孔子における桓公、マキャベェリ、ナポレオン。
とくにナポレオンにおける戦いと、恐るべき、その運命。
それをつぶさに検討した後に、次のように述べる。
「それぞれの社会には、一般市民が守るべき道徳がある。人には親切にしなさい。約束を守りなさい。詐欺はいけません。親切にすることは良い事です。なるべく正直にしなさい。ウソはいけません。その他,諸々の市民道徳がたくさんある。・・・
しかしながら、そうしたひじょうによいことろの市民道徳が健全に行われるには、大切な条件がある。しっかりとした社会の枠組み、秩序が必要なのである。
強盗が銃を持ってやたらに家に入り込んできたり、安心して道を歩けないという状況だったら、他人に親切にしなさいとか、ウソをついてはいけないといった市民道徳は守ってはいられなくなる。
だから、政治家として真っ先にやらなければならないことは、ひじょうによいことろの市民道徳が通用するような秩序を作ることである。
・・・では、法と秩序を保つとはどういう事か。西部劇なら無法者を撃ち殺すことだが、政治においては、法を作り、それを国民をして守らせることである。そして、その結果として国が栄え、豊かになることだ。」
果たして、現在の日本のおいて、この事が正しく行われているか。
政治家は、法を作り、社会の秩序が保たれているか。
現在の日本のおいては、法を作るのは、官僚であり、政治家ではない。
政治家は、むしろ、官僚の手下だ。
官僚こそが、法を作り、社会の秩序を作る権力を握ってしまっている。
さらには、政治家自らが、法を破っている。
勝手に、ーー主権者たる、国民に何の相談もせずにーー法律を、改竄(かいざん)している。
3・11以後の、様々な、法律の「改正=実は改悪であるが」を、一瞥しただけで、このことは、よく解る。
政治家自らが作った法律を、ーーもちろん、その法律は官僚の手になるものだがーー政治家自らが、破っている。
とくに、この事に関しては、ーー政治家自らが、破っていることーー安倍首相の「罪は重い」。
◆ ◆ ◆
「政治家は方針を決める。役人はその方針どうりに行動して政策を実現する。政治家は変化する状況へと適応する。
役人は、政治家が適応を完了することによって所与となった状況、つまり固定化された状況に応じて行動する。ここに、政治家と役人との分業が成立する。これが、韓非子の言う、君主(政治家)が官僚を駆使する術である」
これが本来の政治の姿である。
そうでなければならない。
ところが、現在の日本の政治の状況は、そうはなっていない。
今や政治家は、官僚の操り人形と化している。
この事は、誰の目にも、明らかになりつつある。
日本の国民は、最早、政治家を信用しなくなっている。
それどころか、ー自分たちー国民の敵である、と感じるようになってきている。
自分たちの暮らしを守るどころか、壊そうとしていると、感じている。
確かに、角栄のような金権政治は、影をひそめた。
政治家は、「キレイ」で清潔になった。
おおむね、お金からは、”縁”が切れた。
角栄以後に、総理大臣が多額の賄賂を受け取った疑いで、逮捕されるというような事態は、起きていない。
だが、その事で、政治は以前より良くなったか。
市民道徳が守られ、正義が実現されたか。
国民の生活は、改善されたか。
皆が、安心して暮らしていけるようになったか。
現状は、とてもそうは、なっていない。
市民道徳は、地に落ちている。
そして、国民の生命は、危険にサラされ、今もサラされ続けている。
国民の暮らしは、完全に破壊された、と言っても過言でない状況にある。
この時にあって、金権政治が、何であろう。
賄賂が何であろう。
小室直樹博士が、田中角栄よ、再び出でよ、と叫ぶのは無理のない事である。
(2014/9/17)
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