2015年9月18日金曜日

今まさに、日本国憲法が「死滅」する瞬間を前に、思うこと



参議院とは、何か。
国家権力は、恐ろしい。ほっておくと何をするかわからない。だから、鎖で縛って、その上に、ロープでぐるぐる巻きにしておく必要がある。そのための「知恵」が、権力を二つ―あるいは、三つ―に分ける、ということである。

◆ 参議院の独自性

あらかじめ、権力を分散して、お互いに牽制し合うようにしておく。それが、近代国家の政治原則である。

この意味で、日本の国会も、衆議院と参議院とに、権力を二分している。しかし、日本国憲法は、いくつかの点で、衆議院の優越を認めている。その代りに、参議院にも、独自の「特権」を付与している。

それは、参議院には、「解散がない」という点である。よほどことがない限り、参議院の議員が、議員として資格をはく奪されることはない。また、6年の任期が保障されているので、長期的視野に立って、政策を実行することが出来る。

だが、現実的には、参議院の議員が選挙で選ばれる以上、政党との関係を断つことが出来ない。実際に、今日の参議院での議員の構成は、衆議院と、ほぼ同じものになっている。

議員数において多少の違いがあるが、参議院でも自民党が、過半数を占めている。与党である自民、公明で、55%を占めている。どの会派にも属さない議員は、4名でしかない。

参議院は、衆議院の「行きすぎ」をたしなめる。「足らざる」をおぎなう。「誤り」を正す。以上の様な役目を果たすもの、とされている。だが、現実に、参議院の構成が、衆議院と同じようなものになっている以上は、参議院の独自性を発揮することは、困難である。

もし仮に、そんなことはない、と思うとしたら、あまり素朴すぎる。楽観的すぎる。
代議制民主主義を取る以上は、国民の意思を反映させることが重要である。

そのためには、国会議員を選挙で選ぶ必要がある。だが、そうすると、現実には既成政党の介入を受けざるをえない。その結果、参議院は衆議院の「カーボンコピー」ということになってしまう。

逆に、参議院と衆議院とで、構成が異なると―いわゆる、ねじれ現象を産みー、今度は、法案の審議に大きな影響が出ることになる。まさに、「ジレンマ」といってよい。


 日本国憲法が、「死滅」する秋(とき)

しかし、今回のような重要な法案の審議―国家の存続な関わるような法案ーにおいては、参議院と衆議院で「ねじれ現象」があるほうがよい。もし、そうであれば、安倍首相は、今回のような強引な手法をとることは出来なかったであろう。

そもそも、「集団的自衛権の行使容認」の閣議決定でさえ、出来たかどうか、「あやしい」ものである。その意味においては、「ねじれ現象を解消するべきだ」という掛け声の下に、自民・公明に属する議員の圧倒的多数を当選させたことは、日本にとっての「不幸」であった。

それに、3・11という「災害」が重なった。本来であれば、「フクシマ」の責任を負うべきは、自民党の歴代政権であった。「幸か不幸か」、民主党の政権下で起こった。

確かに、民主党の政権に「大きな不手際」があったことは事実である。だが、もし、あれが自民党の政権下で起きていたら、民主党以上の対応が出来た、と言い切れるであろうか。

むしろ、もっと「ひどい」ことになっていたのではなかろうか。それは、今日の安倍政権の「やってきたこと」、「やっていること」、「やろうとしていること」を見れば明らかなことであると思う。

鳩山元首相の「少なくとも、県外」という発言で、沖縄の基地問題が「こじれた」といわれる。このことも、民主党にとっては、大きな「痛手」となった。だが、鳩山元首相の「少なくとも、県外」という「発言」は、責められるべきものであろうか。

すくなくとも、わたしはそうは思わない。沖縄の基地問題―もっと言えば、在日米軍基地の問題―は、日本の国民のすべてが、「背負うべき」問題である。けっして、沖縄の県民のみに、押し付けて済む問題ではない。


「国民の命と暮らしを守る」という名目で、今まさに、日本国民の命と暮らしか脅かされていう中においてー茨城県などで、多くの被災者が困難を極めている―、安保法案の採決が、きょうの午後にもおこなわれようとしている。

今、この秋(とき)にあって、我々日本の国民に出来ることは、何があるのか。今後、何をするべきなのか。(NHKが中継を入れなくても、ネットで、恐らくは「youtube」で、本会議の様子を見ることが出来る。)

我々、日本の国民が選んだ代表が、いかなる言動をとるのか。よく注視しておく必要がある。

(2015年9月18日  16:30)