「イジメ」は、「犯罪」につながる危険性がある。この認識を持つことが、こういう「事件」を未然に防ぐことにつながる。
だが、肝心の現場にいる教師に、この意識が欠如している。そのように思えてならない。
「公園の献花台」の設置のことから初めて、これまで、2回にわたり、仙台の中学1年生の「イジメ」による「自殺」事件について、観てきた。この記事では、「イジメ」と、「犯罪」という視点から、考えてみたい。
◆ 「イジメ」は、「犯罪」と隣り合わせ
この記事の目的は、「事件」にかかわった担任の教師を「非難する」ことにあるわけではない。世論が、「イジメ」と「犯罪」を区別し、「犯罪」を「イジメ」と誤魔化し、事の「真相をアイマイにする」ことにたいして、よく考えてほしいからである。
もちろん、私とて、「聖人」ではない。いわゆる「古傷」がないわけでもない。「偉そうなことを言える」立場でも、「身分」でもない。そのことを「承知の上」であえて、「苦言」を呈したい。
もし、担任の教師に、―「イジメ」は、「犯罪」と隣り合わせ。あるいは、「イジメ」は、「犯罪」に近い― この意識があれば、今回の「事件」は、未然に防げたかもしれない。
すこしでも、「かも知れない」という意識を持っていれば、その対応は、もっと違ったものになったはずである。
◆ 「シグナル」を読み切れない担任の教師
昨年5月に、学校が実施したアンケートで、男子生徒は「イジメ」をうかがわせる回答をしていた。なのに、担任の教師は、詳しい事情を聴かなかった。
夏休み明け後も「イジメ」が続いたが、担任の教師は、男子生徒に「大丈夫か」と声を掛けるだけにとどまっていた。担任の教師は、「深刻な状況とは思わなかった」と説明している、ようだ。
問題は、ここである。
しかも、「担任に対し、保護者から電話で5回、家庭訪問で1回、相談があった。生徒が周囲にからかわれ、泣いていることに担任が気付き、本人に直接聞き取りをしたこともあった」のだ。
「もっと踏み込んだ対応ができなかったのか」と思われて、当然の「処置」である。
市教委は、「担任は、友人同士のからかい程度と思っていた節がある。当時は加害者側の生徒だけを集めた『謝罪の会』や学年集会を開き、いじめられた側の気持ちに立って行動するよう指導をした。事態を深刻に捉えておらず、認識が甘かった」と説明している。
また、「担任1人に任せきりにせず、組織的に対応していればよかった」とも、述べた。だが、それをするのは、担任の教師の役目である。まずは、校長に知らせる必要があった。
しかし、「イジメ」との認識がない限り、あるいは、「これは、イジメを越える犯罪である」という認識がない限り、そのような対応を期待することは出来ない。
◆ 「教師(=人間)としての資質」が、子供を救う
≪いじめをうかがわせる回答をしていたのに、担任の教師が、事情を聴かなかったこと≫
≪生徒が”周囲にからかわれ、泣いていても”、それを”友人同士のからかい程度”と判断したこと≫
これだけのことからしても、この教師は、「教師としては、失格」である。「鈍感」過ぎる。もし、これを、「イジメかもしれない」、「犯罪」につながるかもしれない、という認識があれば、「被害者は、死なずに済んだかもしれない」のである。
しかも、この生徒は、5月ごろから「登校拒否」状態にあったことを考えれば、なおさらのことである。
「ほんの些細なことから、大事に至る」のだという、認識が欠如していた、としか思えない。「中学生1年生と言えども、大の男」である。その「男」が、涙を出して泣いているのだ。
これを「単なるからかい」と判断を下した時点で、教師という前に、「人間としての資質に欠ける」気がする。「思やり」に欠ける。
私は、「教師の資質」で一番重要なことは、”余計なお世話をやく心である”と思う。たとえば、道端で”しゃがみこんでいる人”を見たら、”大丈夫だろうか”と心配をする。そういう気持ちの「強い」人のことを言っている。
「”自分には関係がない”と、何も思わずに、そのままに通り過ぎる人」は、「教師には向かない」、と思う。もし、「担任の教師」にこのような心があれば、「被害者」の生徒ことを、「このまま、ほってはおけない」と思ったはずである。
そのように思っていれば、「イジメ」であると解ったであろうし、「犯罪」である、という認識にも、到達しえた、ことであろう。
「ほんの些細なことから、大事に至る」。「からかい」と軽く見ないで、「イジメ」かも知れない、と考える。「イジメ」は、「犯罪」につながる可能性がある、という「鋭敏な嗅覚」を持つ。
そのことが、このような「事件」が起こることを未然に防ぐ、「ポイント」であると思う。
※ 本当は、「イジメ」と書かずに「イジメ=犯罪」と書きたかったのですが、必ずしもそうでない場合もあることを考慮して、「イジメ」と「犯罪」を分けて、表記しました。
次回は、「保護者に出来ること」について、考えてみる予定です。
(2015年9月24日)
だが、肝心の現場にいる教師に、この意識が欠如している。そのように思えてならない。
「公園の献花台」の設置のことから初めて、これまで、2回にわたり、仙台の中学1年生の「イジメ」による「自殺」事件について、観てきた。この記事では、「イジメ」と、「犯罪」という視点から、考えてみたい。
◆ 「イジメ」は、「犯罪」と隣り合わせ
この記事の目的は、「事件」にかかわった担任の教師を「非難する」ことにあるわけではない。世論が、「イジメ」と「犯罪」を区別し、「犯罪」を「イジメ」と誤魔化し、事の「真相をアイマイにする」ことにたいして、よく考えてほしいからである。
もちろん、私とて、「聖人」ではない。いわゆる「古傷」がないわけでもない。「偉そうなことを言える」立場でも、「身分」でもない。そのことを「承知の上」であえて、「苦言」を呈したい。
もし、担任の教師に、―「イジメ」は、「犯罪」と隣り合わせ。あるいは、「イジメ」は、「犯罪」に近い― この意識があれば、今回の「事件」は、未然に防げたかもしれない。
すこしでも、「かも知れない」という意識を持っていれば、その対応は、もっと違ったものになったはずである。
◆ 「シグナル」を読み切れない担任の教師
昨年5月に、学校が実施したアンケートで、男子生徒は「イジメ」をうかがわせる回答をしていた。なのに、担任の教師は、詳しい事情を聴かなかった。
夏休み明け後も「イジメ」が続いたが、担任の教師は、男子生徒に「大丈夫か」と声を掛けるだけにとどまっていた。担任の教師は、「深刻な状況とは思わなかった」と説明している、ようだ。
問題は、ここである。
しかも、「担任に対し、保護者から電話で5回、家庭訪問で1回、相談があった。生徒が周囲にからかわれ、泣いていることに担任が気付き、本人に直接聞き取りをしたこともあった」のだ。
「もっと踏み込んだ対応ができなかったのか」と思われて、当然の「処置」である。
市教委は、「担任は、友人同士のからかい程度と思っていた節がある。当時は加害者側の生徒だけを集めた『謝罪の会』や学年集会を開き、いじめられた側の気持ちに立って行動するよう指導をした。事態を深刻に捉えておらず、認識が甘かった」と説明している。
また、「担任1人に任せきりにせず、組織的に対応していればよかった」とも、述べた。だが、それをするのは、担任の教師の役目である。まずは、校長に知らせる必要があった。
しかし、「イジメ」との認識がない限り、あるいは、「これは、イジメを越える犯罪である」という認識がない限り、そのような対応を期待することは出来ない。
◆ 「教師(=人間)としての資質」が、子供を救う
≪いじめをうかがわせる回答をしていたのに、担任の教師が、事情を聴かなかったこと≫
≪生徒が”周囲にからかわれ、泣いていても”、それを”友人同士のからかい程度”と判断したこと≫
これだけのことからしても、この教師は、「教師としては、失格」である。「鈍感」過ぎる。もし、これを、「イジメかもしれない」、「犯罪」につながるかもしれない、という認識があれば、「被害者は、死なずに済んだかもしれない」のである。
しかも、この生徒は、5月ごろから「登校拒否」状態にあったことを考えれば、なおさらのことである。
「ほんの些細なことから、大事に至る」のだという、認識が欠如していた、としか思えない。「中学生1年生と言えども、大の男」である。その「男」が、涙を出して泣いているのだ。
これを「単なるからかい」と判断を下した時点で、教師という前に、「人間としての資質に欠ける」気がする。「思やり」に欠ける。
私は、「教師の資質」で一番重要なことは、”余計なお世話をやく心である”と思う。たとえば、道端で”しゃがみこんでいる人”を見たら、”大丈夫だろうか”と心配をする。そういう気持ちの「強い」人のことを言っている。
「”自分には関係がない”と、何も思わずに、そのままに通り過ぎる人」は、「教師には向かない」、と思う。もし、「担任の教師」にこのような心があれば、「被害者」の生徒ことを、「このまま、ほってはおけない」と思ったはずである。
そのように思っていれば、「イジメ」であると解ったであろうし、「犯罪」である、という認識にも、到達しえた、ことであろう。
「ほんの些細なことから、大事に至る」。「からかい」と軽く見ないで、「イジメ」かも知れない、と考える。「イジメ」は、「犯罪」につながる可能性がある、という「鋭敏な嗅覚」を持つ。
そのことが、このような「事件」が起こることを未然に防ぐ、「ポイント」であると思う。
※ 本当は、「イジメ」と書かずに「イジメ=犯罪」と書きたかったのですが、必ずしもそうでない場合もあることを考慮して、「イジメ」と「犯罪」を分けて、表記しました。
次回は、「保護者に出来ること」について、考えてみる予定です。
(2015年9月24日)