<web上「読書会」 丸山【3】 >
丸山真男著『現代政治の思想と行動』の、3回目を投稿します。この中においては、丸山は、学問(政治学)を、研究する上での態度決定について、その時に出てくるジレンマ
(二律背反的)について、述べています。同時に、我々、普通の市民が日々の暮らしの中で行わなければならない態度決定においても、同じようなジレンマに遭遇するといいます。
◆ 抜書き
≪現代にはいやならなくわれわれに態度決定を迫ってくるような問題は山のようにあります。しかもそういう問題は昔と違いまして、きわめて巨大であると同時に複雑な様相からなっており、その問題の全貌を認識すると言うことは容易ではありません。
私たちはどこまでも客観的な認識を目指すところの研究者として、具体的な問題にたいしてできるだけ多面的な、また豊富な認識に到達することことを目指すのは当然であります。
しかも他方においてわれわれは、時事刻々にこれらの問題に対して、いやおうなく決断を下さなければならない。 それによっていやおうなく一定の動向にコミットすることになります。物事を認識するというのは無限の過程であります。 一見きわめて簡単な事柄のように見える社会事象と政治問題をとってみても、そのあらゆる構成要素をとり出して八方から照明をあてて分析し、さらにその動態のあらゆる可能性を極め尽くすとなるとほとんど永遠の課題になります。 それだけ考えてもどんなに完璧に見える理論や学説でも、それ自身完結的なものでないことが分かります。
だから学問的な分析が無意味なのではなく、むしろ完結的でないところにこそ学問の進歩というものがあるわけです。 認識が仮説と検証の無限の繰り返しの過程であるからこそ、疑うということ、自分の考え方、自分の学説、自分の理論に対する不断の懐疑の精神ということが、学問に不可欠であります。 学問的な態度をドグマチックな態度から区別するのは、ないよりもそうした疑い精神、自分のなかにひそむ先入観を不断に吟味し自分の理論につねに保留を付ける態度であります。
しかしながら他方決断ををするということは、この無限の認識過程をある時点において文字通り断ち切ることであります。 断ち切ることによってのみ決断が、したがって行動というものが生まれわけであります。 むろん決断し選択した結果そのものはまた認識過程の中に繰り入れられ、こうして一層認識は豊富になるのですけれど、決断のその時点においては、より完全なより豊富な認識を断念せざるをえない。 つまりここには永久に矛盾あるいは背反があります。
認識というものはできるだけ多面的でなければならないが、決断はいわばそれを一面的に切りとることです。 しかもたとえば政治的な争点になっているような問題についての決断は、たんに不完全な認識にもとづいているという意味で一面的であるだけでなくて、価値判断として一方的ならざるをえない。 泥棒にも三分の理といいますが、認識の次元で一方に三分の理を認めながら、決断としてはやはり他方の側に与せざるをえない。 それでなければ決断は出てこないわけです。
ゲーテは「行動者は常に非良心的である」といっておりますが、私たちが観照者、テオリア(見る)の立場に立つ限り、この言葉には永久の真実があると思います。 つまり完全にわかっていないものをわかったとして行動するという意味でも、また対立する立場の双方に得点と失点があるのに、決断として一方に与するという意味でも、非良心的です。 にもかかわらず私たちが生きていく限りにおいて、日々無数の問題について現に決断を下しているし、また、下さざるをえない。 純粋に観照者の立場、純粋にテオリアの立場に立てるものは神だけであります。 その意味では神だけが良心的であります。≫
◆ 日本の社会は、「戦前に回帰」しつつある
「抜書き」という性格を考慮して、あえて、アンダーラインを引きことはしません。(前回までは、引いていたのですが。)
28日に、SEALDsの奥田さんに殺害予告の書面が送りつけられたことが、話題になっています。まったく、卑劣なやり方で、「許せない」行為ですが、奥田さんとしては、ある程度のことは「覚悟の上』であったと思います。
しかし、「殺害する」という行為をもって、「脅しをかける」など、言語道断です。ネットでは、さっそく、心ない人びとによる「書き込み」が行われています。
ですが、あのような「書き込み」を行う人びとこそ、「傍観者」に他ならないと思います。自分を安全な場所(「匿名での投稿者」のことに限定してのべています)において、見えない所から相手を攻撃するなどという事は「ひきよう者」のすることです。
私が度々言及してきた小室直樹博士は、「”言論の自由”を行使することは非常な覚悟を要する。ときには、”生命を危険”に晒すこともある」と述べておられます。
戦前では、こうした「言論の自由」を拳銃や、刀などをもって、文字通り「殺す(=殺人)」することが横行しました。これまでも、「殺人予告」という事はありましたが、「デモ」を行っている人を「ターゲット」にするようなものは、「なかった」と思います。
その意味においては、こんにちの日本の社会は、「戦前に回帰」しつつあるのかもしれません。
(2015年9月30日)
日々の暮らしの中における態度決定のジレンマ
丸山真男著『現代政治の思想と行動』の、3回目を投稿します。この中においては、丸山は、学問(政治学)を、研究する上での態度決定について、その時に出てくるジレンマ
(二律背反的)について、述べています。同時に、我々、普通の市民が日々の暮らしの中で行わなければならない態度決定においても、同じようなジレンマに遭遇するといいます。
◆ 抜書き
≪現代にはいやならなくわれわれに態度決定を迫ってくるような問題は山のようにあります。しかもそういう問題は昔と違いまして、きわめて巨大であると同時に複雑な様相からなっており、その問題の全貌を認識すると言うことは容易ではありません。
私たちはどこまでも客観的な認識を目指すところの研究者として、具体的な問題にたいしてできるだけ多面的な、また豊富な認識に到達することことを目指すのは当然であります。
しかも他方においてわれわれは、時事刻々にこれらの問題に対して、いやおうなく決断を下さなければならない。 それによっていやおうなく一定の動向にコミットすることになります。物事を認識するというのは無限の過程であります。 一見きわめて簡単な事柄のように見える社会事象と政治問題をとってみても、そのあらゆる構成要素をとり出して八方から照明をあてて分析し、さらにその動態のあらゆる可能性を極め尽くすとなるとほとんど永遠の課題になります。 それだけ考えてもどんなに完璧に見える理論や学説でも、それ自身完結的なものでないことが分かります。
だから学問的な分析が無意味なのではなく、むしろ完結的でないところにこそ学問の進歩というものがあるわけです。 認識が仮説と検証の無限の繰り返しの過程であるからこそ、疑うということ、自分の考え方、自分の学説、自分の理論に対する不断の懐疑の精神ということが、学問に不可欠であります。 学問的な態度をドグマチックな態度から区別するのは、ないよりもそうした疑い精神、自分のなかにひそむ先入観を不断に吟味し自分の理論につねに保留を付ける態度であります。
しかしながら他方決断ををするということは、この無限の認識過程をある時点において文字通り断ち切ることであります。 断ち切ることによってのみ決断が、したがって行動というものが生まれわけであります。 むろん決断し選択した結果そのものはまた認識過程の中に繰り入れられ、こうして一層認識は豊富になるのですけれど、決断のその時点においては、より完全なより豊富な認識を断念せざるをえない。 つまりここには永久に矛盾あるいは背反があります。
認識というものはできるだけ多面的でなければならないが、決断はいわばそれを一面的に切りとることです。 しかもたとえば政治的な争点になっているような問題についての決断は、たんに不完全な認識にもとづいているという意味で一面的であるだけでなくて、価値判断として一方的ならざるをえない。 泥棒にも三分の理といいますが、認識の次元で一方に三分の理を認めながら、決断としてはやはり他方の側に与せざるをえない。 それでなければ決断は出てこないわけです。
ゲーテは「行動者は常に非良心的である」といっておりますが、私たちが観照者、テオリア(見る)の立場に立つ限り、この言葉には永久の真実があると思います。 つまり完全にわかっていないものをわかったとして行動するという意味でも、また対立する立場の双方に得点と失点があるのに、決断として一方に与するという意味でも、非良心的です。 にもかかわらず私たちが生きていく限りにおいて、日々無数の問題について現に決断を下しているし、また、下さざるをえない。 純粋に観照者の立場、純粋にテオリアの立場に立てるものは神だけであります。 その意味では神だけが良心的であります。≫
◆ 日本の社会は、「戦前に回帰」しつつある
「抜書き」という性格を考慮して、あえて、アンダーラインを引きことはしません。(前回までは、引いていたのですが。)
28日に、SEALDsの奥田さんに殺害予告の書面が送りつけられたことが、話題になっています。まったく、卑劣なやり方で、「許せない」行為ですが、奥田さんとしては、ある程度のことは「覚悟の上』であったと思います。
しかし、「殺害する」という行為をもって、「脅しをかける」など、言語道断です。ネットでは、さっそく、心ない人びとによる「書き込み」が行われています。
ですが、あのような「書き込み」を行う人びとこそ、「傍観者」に他ならないと思います。自分を安全な場所(「匿名での投稿者」のことに限定してのべています)において、見えない所から相手を攻撃するなどという事は「ひきよう者」のすることです。
私が度々言及してきた小室直樹博士は、「”言論の自由”を行使することは非常な覚悟を要する。ときには、”生命を危険”に晒すこともある」と述べておられます。
戦前では、こうした「言論の自由」を拳銃や、刀などをもって、文字通り「殺す(=殺人)」することが横行しました。これまでも、「殺人予告」という事はありましたが、「デモ」を行っている人を「ターゲット」にするようなものは、「なかった」と思います。
その意味においては、こんにちの日本の社会は、「戦前に回帰」しつつあるのかもしれません。
(2015年9月30日)
日々の暮らしの中における態度決定のジレンマ
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