2015年9月22日火曜日

あまりに「軽るすぎる」安保法案への安倍首相の「発言」と、その「本音」

米国は、大統領制になっていることにより、大統領の地位が明確になっている。一度、大統領の職を経験した者は、二度と、政権に入ることがない。
それ比べ、議院内閣制を採用してる日本のおいては、行政の長である内閣総理大臣の地位が、あまりにも、軽い。

そのことは、内閣総理大臣の経験者が、再び、自分以外の内閣の閣僚などの要職に就くことが、「日常茶飯事」になっているという事実が、それを証明している。

総理大臣の地位が軽く思われているだけでなく、総理大臣の発言自体も、軽い。このことは、安倍首相においては、特に「顕著である」と思う。

そのことを今回の安保法制に関する発言の中から、取り出してみたい。ただし、これは安倍晋三氏の個人攻撃をすることが、目的ではない。あくまでも、「日本の首相」としての、安倍晋三氏についての考察である。


◆ 「時間稼ぎ」をするような答弁に始終しておきながら

安倍首相は、安保法案の衆議院での審議の過程において、「対案も出てきたなか、しっかりと議論を進めていただきたい。 いずれにしても、決めるべき時には決めるということではないか」と述べた。

この発言自体(「…ではないか」という言い方」)が、まるで「自分とは関係のないこと」について発言しているように思えてしまう。仮にも、この法案は安倍政権が閣議を行い、法案として国会に上程したものである。

同じ発言をするなら、誤解をおそれることなく、「決めるべき時には、決めて頂きたいと思っている」と、堂々と言うべきではないか。

同じように、「国民の理解が進んでいないということはこれまで答弁してきたとおりだが、採決をするかどうかは委員会がお決めになることだ」と述べた。確かの、この発言通りであることは間違いがないのだが、どうにも「軽い」発言に聞こえてしまうのだ。

(総理は自民党総裁であり、自民党の国会対策委員会に指示を出される立場でもある、との指摘をうけての)、「(委員会では)100時間を超える議論を行ってきた。そういう中において、いずれにいたしましても、この委員会で採決をするかということについては、これは委員会でお決めになることだ。これは従来から申し上げている通りであります」という答弁についても、まるで「録音をリピート」するかのような発言も、同様だ。

安倍首相は、「100時間を超える議論」というが、この中において、一体どれほどの時間が、実質的な議論に費やされたと思っているのだろう。

安倍首相をはじめ、中谷大臣、岸田大臣、内閣法制局長官らは、答弁に立っても、質問者の質問を繰り返したり、(あえて)全然関係のない答弁をしたりして、「時間稼ぎ」をするような答弁に始終した。

これではいくら時間をかけようと、審議が十分に尽くされたいえることにはならない。そのことは、国民が一番理解している。


◆ 「民主主義のルールだ」 と、誰が決めた

また、9月14日には、―法案についての―国民の支持が広がっていないと認めた上で、「熟議の後に決めるべき時には決めなくてはならない。それが民主主義のルールだ」 と、述べもした。

(世論調査で法案への反対が多数を占めることについては)「残念ながら、まだ支持が広がっていないのは事実だ」という認識を示した。にもかかわらず、「国民の命、平和な暮らしを守るために必要不可欠な法案だ。一日も早く成立させたい」と、まるで、「駄々っ子」のように要求した。

法案に対する国民の理解など、「どこ吹く風」という態度であり、「私には関係がない」という態度を見せた。「私がやりたいことをやる」、文句があるなら、「選挙の時に言え」というのが、安倍首相の「本音」であろう。

それどころか、―あろうことか。おそらくは、「苦し紛れ」の答弁であろうが―特別委で、「法案が成立し、時が経ていく中で間違いなく理解は広がっていく」などと、許し難い答弁をおこなった。

だが、これも、そのままには、受け取ることが出来ない。今、理解されないものが何故、時がたつにつれて「理解が深まっていく」といえるのか。それは、安倍首相の「希望的観測」であり、その「本音」は、「我亡き後に、洪水は来たれ」ということにある。

これでは、一体、何のための審議かわからない。まったく、国会の審議を無視するものであるし、国会自体の存在を軽視するものである。これでは、国会での審議など、「”どうでもよい”と考えているのではないか」と、受け止められても、弁解の余地がない発言だ。


◆ 崩れた「ふたつの根拠」

これらの一連の発言に「とどめをさす」のが、ホルムズ海峡や、米艦船防護に関するものである。しかも、この二つは、安保法案の根幹に関わるものだ。

ホルムズ海峡での、戦時の機雷掃海については、「現在の国際情勢に照らせば、現実の問題として発生することを具体的に想定しているものではない」とのべたのであった。

これほどの「欺瞞に満ちた発言」はない。首相は、これまで安保法案について、イランによる海上封鎖を念頭に、機雷掃海の必要性を強調し続けてきた。その結果の、この発言である。許しがたい「発言」だ。

その意味では、国会を延長したこと自体は、「無意味ではなかった」といえるのかもしれない。

もう一つの、「例のパネル」を使っての説明の件だ。

安倍首相は、日本は攻撃されていなくてもアメリカが攻撃されたらその相手国を日本が攻撃するという、集団的自衛権の行使の容認の閣議決定(2014年7月)する前の、5月15日に記者会見を開き、パネルを使って集団的自衛権の行使が必要だと、説明をした。

「紛争国から逃れようとしているお父さんやお母さんや、おじいさんやおばあさん、子どもたちかもしれない。彼らの乗っている米国の船を今、私たちは守ることができない」ので、それが出来るようにするために、「閣議決定をするのだ」、と述べた。

「母親が乳飲み子を抱いて紛争地から米国艦船で脱出しようとしている様子を描いたパネル」を指しての説明であった。これも、「最後の最期」でひっくり返した。

中谷大臣が答弁をしたことであるが、安倍首相は、それを否定しなかった。つまり、自身でも「認めた」ことになる。

これで、安保法案が必要であるという法的根拠の根幹がふたつとも、「崩れた」のである。それでも、安倍は自身の発言の「軽さ」については、反省をすることなく、参議院の委員会においても、「強行採決」をおこなった。


これでは、今後の国会での審議を、日本の国民は信用しなくなることであろう。安倍政権が何をしようと、何を言おうと誰も、信じないであろう。

日本の総理大臣の地位や発言が「軽い」ことは、日本の国民には「膾炙」されている事実であるが、その中でも、安倍首相の発言は、「群を抜いている」。

この安倍首相が、これからの3年間にわたって日本に「君臨する」ことを思うと、「鳥肌が立つ」のは思いがする国民は、私ひとりではない、と いう気がする。

安保法案に反対する「デモ」の参加者の中から、「安倍を倒せ」という声が大きくなってくるのは、当然のことである、と思う。


 なお、法案の国会審議中での、安倍首相の「ヤジ」も、「看過できない」ことではあるが、あまりにも「大人気なさ過ぎて」、取り上げる気にならなかった。(記事の長さを考えてのことでもあるのだが。)

(2015年9月22日)