2015年9月8日火曜日

高村氏の「理解が得られなくても、やる」と、安保法案反対「デモ」の規制

まさに、民意の無視であり、「独裁」というべきだ。
自民党の高村副総裁が、「(国民の理解が)十分得られてなくても、(強行採決を)やらなければいけない」と述べた。
一方で、安保法案に反対する「デモ」は、当局の規制にもかかわらず、「下火」にはならない。


このような中において、国民の「願い」を無視するような高村氏の発言は、明らかに憲法に違反する行為である。

安保法案について、高村氏は改めて、今国会での成立を重ねて強調した。
だが、これは、高村氏自身の「自己否定」に等しい発言だ。


1) 国民の意思の「無視」であり、民主主義の原則を踏みにじるもの

昨年の8月22日に、高村氏は、
「通常国会で全法案が出る。全体像を示して審議すれば、多くの国民の理解が得られる。法律が通るころには、50%以上が支持してくれる」(「47ニュース」)
と述べている。

今から、約1年前の見解がこれだ。
おそらく、高村氏は、その時は、今日のような状況になるとは、考えることが出来なかったのだろう。

ところが、現実は、高村氏が描くようにはならなかった。

安倍政権が全体像を示せば示すほど、次々に安保法案の矛盾が露呈し、ますます、民意は安倍政権から離れていっている。

安保法案について、国民の「理解」が得られるどころか、安倍政権を支持しない(理解を示さない)国民が、6割を超えている。

国会議事堂前ばかりでなく、全国のいたるところで、法案に反対し、安倍政権の「退陣」を要求する「デモ」や集会が行われている。

最早、大半の国民の意思は、安保法案の「廃止」を望んでいる。このことは、高村氏といえども、「否定」出来ない事実となっている。

そのためか、高村氏は自身の言葉を、自ら否定し、「安全保障というのは、国民のために必要だということで、(国民の理解が)十分得られてなくてもやらなければいけない時がある」という見解を示した。(「テレ朝})

こうして、まったく、180度の転換をおこなった。
これは、高村氏の「常套手段」である。

これまでの政府見解で「出来ない」と言っていたものを、「出来る」という政府見解に180度転換させたのも、高村氏だ。

そのうえで、高村氏は、「選挙で国民の理解が得られなければ政権を失う」と、「開き直り」ともとれる見解を述べた。

これは、完全に、国民の大方の意思を「無視」するものであり、民主主義の原則を踏みにじるものである。


2) 国民は、政府の「横暴」に対し、「正当」な方法を用いて、異議をとなえる権利を持つ

バージニア権利章典と呼ばれる文書がある。
この文書は、「1776年のアメリカ独立宣言、1789年のアメリカ権利章典、および1789年のフランス革命における人間と市民の権利の宣言」などに影響を与えたと、されている。

バージニア権利章典は、その第2条で、「あらゆる権力は人民に与えられそれ故に人民から得られる。行政官は人民の被信託者であり僕であって、常に人民に従うものである。」と述べる。

これは、我が国の憲法にも、示されている。
日本国憲法の前文が、
「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」
と述べているのが、それだ。

つまり、政府の「権限」は、国民の「支配」下にあるべきなのである。

また、権利章典は、第3条で、
「政府は人民、国家あるいは社会の共通の利益、保護および安全のために制度化されるものであり、あるいはされるべきである。様々な様式や形態の政府の中でも、最大限の幸福と安全を生み出すことができ、悪政の危険に対して最も効果的に防御されているのが最善である。いかなる政府もこれらの目的について不適切であるとか反していると認められたときには、公共の福祉に最も資すると判断される方法で、政府を改革し、置き換え、あるいは廃止する疑いも無く、不可分で剥奪できない権利を社会の多数派が持っている。」
と述べる。

この条文は、大半の国民の「意思」に反する、「横暴な政府」があれば、国民は、その政府にたいし、「正当」な方法を用いて、「拒否」をする権利を持っている、という事だ。

日本国憲法も、この点を認め、第十六条 、第二十一条において、以下のように規定する。
「第十六条  何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。
第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」

今、全国で行われている、「デモ」や「集会」は、まさに、この精神に「沿う」、国民的行動である。


3) 政府は、穏やかに行われる「デモ」を、保証すべき立場にある

そうであるのに、安倍政権は、この「デモ」でさえ、「妨害」しようとしている。

日刊ゲンダイは、≪悪質な中傷、警察の威圧…露骨さを増す「安保反対デモ潰し」≫というタイトルで、次のような記事を載せた。
≪抗議デモに動員される警察官は日増しに増え、監視の目も厳しくなっている。24日に開催された日比谷野外音楽堂や官邸周辺、国会前でのデモでは現場に向かう道路に警官がズラリと並んで人の流れを規制し、あちこちに柵や三角コーンを立ててスペースを狭めていました。デモの規模を抑え込もうとしているのは明らか。違法にもかかわらず、公安は次から次へと参加者を撮影して威圧し、弁護士有志の『見守り弁護団』がそれに繰り返し抗議する。ちょっと異常な光景でした≫

 憲法で保障された国民の権利を、「穏やか」な形で表明する「デモ」であるにもかかわらず、警察権力を用いて、「規制」を行うのは、明らかに「憲法違反」にあたる。

政府は、この「デモ」を「規制」すべき立場にない。
むしろ、国民のこの行動を、保障すべき立場にある。

日本国憲法の第二十一条 の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」というのは、国民への「命令」ではなく、政府(=国家)への命令なのである。

国民の意思表示である「穏やかに行われているデモ」を、過剰に規制することは、明らかに、「憲法違反」である。

安倍政権の、この「デモ」規制は、あきらかに「やり過ぎ」であり、この政権そのものが「憲法違反」的存在である、ことを証明するものだ。

このようことを公然とおこなう安倍政権が、多くの国民から、支持されないのは、当然のことである。


(関連記事案内)
SEALDsへの侮蔑を引用ツイート 自民幹部職員が大炎上=日刊ゲンダイ
週のはじめに考える デモの民主主義が来た=東京新聞
8月30日の警備について、および今後の国会周辺での抗議行動についての申し入れ=レイバーネット

 タイトルを変更。一部加筆して、再投稿しました。

(2015年9月8日)