2015年9月25日金曜日

「絆」と「命を救うこと」は、関係がない 中1生「イジメ自殺」【4】

「滝クリ」こと、滝川クリステルが、オリンピックの招致のときに、「絆」を強調したことで、「kizuna」が、世界で通用する時が来るかもしれません。
≪中1生「イジメ自殺」 「絆」と「命を救うこと」は、関係がない≫を、掲載します。


「3・11」においても、また、「絆」が、強調されました。

「絆」とは、馬・犬・たか(鳥)等をつなぎとめる綱(ひも)のこと。それが、転じて、「断とうにも断ち切れない人の結びつき」をさし示す言葉としてつかわれるようになった。

この言葉は、どちらかといえば、あまりいい意味の言葉ではない。「断とうにも断ち切れない」という事は、「出来れば断ち切りたい」という気持ちが、先行しているからである。

しかし、「滝クリ」も、「3・11」のときも、むしろ「いい意味」において使われた、ように思う。この言葉は、「絆」の後にどんな言葉を持ってくるかによって、大きく意味が変化する。


◆ 際限なく広がる、「”つながり”の海の中」で、もがく子供

こういう「事件が起きると、すぐに、「世間の人」は、「絆」という言葉を持ち出して、日本の社会での「人々のつながり」を言い立てる。それは、学校の中においても、同様のことである、と思われる。

「班のつながり」(もし、現在でも、こういうことがあるとしてのことであるが)、「クラスのつながり」、「学年のつながり」、「学校のつながり」…と、際限もなく「つながり」が、強調される。

そして、現在の子供らを取り巻く環境は、それだけに留まらない。ネットが普及したことにより、「無限大」と言ってもよいほどの「色々なつながり」を、子供らは、強いられている。

そのなかでも、「LINEによるつながり」は、特にその影響が大きい、と思われる。「思われる」と書いたのは、私には、LINEを使った経験がないからである。恐らくは、「ツイッター」や「フエイスブック」と同類のものであるとおもうが、今回の「事件」でも、それが使われた。

「被害者」と、ある「アイドルとの合成写真」が使われた。それがどのような「写真」かについては、学校は「もちろんのこと」、市教委も、公表してはいない。

だから、解らない。ネット上で「公開」されたという事は、大変のことである。一度載れば、消し去ることは、「不可能に近い」からである。いつまでも、ネット上を「徘徊」することになる。

もし、これが「被害者の名誉を、いちじるしく侵害するような写真」であったとするなら、「犯罪」として、「立派」に成り立つ。刑法は、「14歳未満については、その罪を罰しない」としているが、重大な人権侵害に当たる。

現在は、小学校からパソコン導入されており、パソコンの使い方の指導がなされている。だが、パソコン上で情報をやり取りする際の、「約束」や「危険性」、使い方によっては、「犯罪」になる、という事についての指導まで、徹底して行われているのかどうかという事については、疑問がある。

パソコンの使い方を指導する以上は、使うことの「リスク」についても、その年齢に合わせて、しっかりと指導すべきであると、考える。むしろ、積極的に指導すべきであると、思う。


◆ 学校は、典型的な「閉鎖社会」

言うまでもなく、学校は、典型的な「閉鎖社会」である。「出来れば断ち切りたい」と思っても、おいそれと、断ち切れるものではない。ここに、問題の根源のひとつが存在する。

大人の社会であれば、嫌と思えば、「断ち切ること」が出来る。「出来ない」までも、距離をおくことで、影響を最小限に留めることが出来る。いや、そうでもないかも知れない。大人の社会でも難しい。

もし、そうであるなら、子供の社会ではもっと難しい、という事になる。そのことが、子供を「悩ませ」、「追い詰める」のではないか。本来であれば、子供は、もっとノビノビと、毎日を送ることが出来なければ、「ウソ」だ。

子供が、「死を選択しなければならないほど、悩む」などという事は、あってはならないことである。ましてや、学校という「閉じられた空間」においては、なおさらのことだ。


≪おのれの「正義」に疑問を持たない善人にこそ、もっとも警戒すべきです。自分の正義を疑わない善人は、ふとしたきっかけで暴走し、正義の名のもとに他人の命を奪います。≫

これは、あるブログの記事で、見つけた言葉である。「真実」を言い当てている、と思う。いかにも、「ドウボウ」を働きそうな人間が、実際に「ドロボウ」をしても、世間の人は別に驚かない。

まったく「ドウボウ」を働きそうにない人が、「ドロボウ」をすると、「なぜ、あんな人が」と、驚きの声をあげる。これは、人を見かけで判断しているためだ。

「イジメ」をして、そのことで「他人を苦しめて何の痛みも感じない者」は、「おのれの”正義”に疑問を持たない」者である、という気がする。だから、いつまでまでも、「イジメ」を止めようとしない。相手を「死に追いやる」まで、続ける。

そのことを、「テンとして、恥じない」。後悔もしない。だから、「イジメの相手が、自殺」しても、平気でいられる。

「狂気にとらわれている」としか言いようがない。


◆ LINEなどを利用する「危険性」

≪LINEなどを利用する若者たちの間では、返事をすぐに返さなければいけない、みたいな縛りが強要されてたりします。そうやって仲間同士の絆を強めることによって、若者たちはしあわせになっているんでしょうか? 逆に、いじめや暴行事件の原因になることもあります。≫と、さきに引用したブログ主は、書いている。

同感である。「返事をすぐに返さなければ」、「仲間外れにする」というようなことが、横行しているのではないか。これは、一種の「脅迫」である。「嫌なら、そこからぬか出せばいい」と思うかもしれないが、そのことさえも、「脅迫されて」出来ないようにされる。

そういうことではないかと思う。もし、そうだとしたら、これほどの「苦痛」はないであろう。中学生といえども人間である以上は、「自由に生きたい」はずだ。LIN
Eなどで、強制されたくはないはずだ。(私の、偏見かもしれないが・・・・。)

「断とうにも断ち切れない」そのジレンマが、「彼」を、あそこまで追い詰めたのであろう。「イジメ」に対し、「弱い」から、という批判がなされることがある。

「弱いから、イジメを跳ね返すことが出来ない。そして、自殺の道を選択する」という批判がなされる。だが、私は、「断じて」こういう考えには、賛成できない。「死者を鞭打つ」ようなことは、したくない。


 前回の記事の末尾で、「次回には、保護者に出来ること」についての記事を書きます、と約束しましたが、急きょ、「社会との関係」について、書くことにしました。これでも「中途半端」で、言い足りません。このこと(社会とのつながり)については、もう少し続けて、記事を書いていきたいと考えています。

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(2015年9月25日)