2015年9月20日日曜日

国会前の過剰警備は、憲法違反だ 「日本」いまだ「民主主義国家」に非ず【Ⅱ】


≪「日本」いまだ「民主主義国家」に非ず【Ⅱ】 国会前の過剰警備は、憲法違反だ≫を、掲載します。


安保法案に反対するデモは、憲法学者らの「違憲発言」などにより、徐々に盛り上がりを見せるようになった。「60年安保」の時と違い、組織された人びとが参加したわけではない。

今回の安保法案に反対する「デモ」は、国会での審議、自民党の国会議員らによる「反民主主義的」発言や、首相補佐官による「法的安定性は関係がない」という、信じられないような「暴言」などに反発した、「普通の国民」によって、自然発生的に起こった。

「どこにでもいる」人びとによって、おこなわれた。ごく普通の若者、若いお母さん、おばさん、おじさんなどが参加して、おこなわれた。

ところが、デモが盛り上がるにつれて、この安保法案に反対する「デモ」についての「中傷」や、「デモは意味がない」などという発言が、後をたたない。


◆ 政府を批判する権利は、いつでも行使できる

個々の人間が、いかなる意見を持とうと、表明しようと、それは自由である。
だが、「犬は吠えよう」と、歴史の歯車を逆に回転させることは出来ない。世の中の動きは止められない。人びとの「自由な意思の表明」を、制限することは出来ない。

ましてや、それを「暴力」によって、止めることなど不可能である。人間の心まで規制し、制限することは出来ないからである。たとえ、「鉄格子」の中に閉じ込められようと、人間は自由に、「もの」を考えることが出来る。

バージニア権利章典は、「(いかなる政府であっても、その政府が人民に付与された”天腑の権利”を侵害する、あるいは侵害する恐れがある場合には)公共の福祉に最も資すると判断される方法で、政府を改革し、置き換え、あるいは廃止する疑いも無く、不可分で剥奪できない権利を社会の多数派が持っている」と、宣言している。

これは、なんと、1776年に起草された宣言である。200年以上も前のことである。このバージニア権利章典の「精神」は、日本国憲法にも、引き継がれている。


◆ 安倍政権は、二重、三重の「憲法違反」をした

日本国憲法は、第11条で、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と、述べる。

また、第21条 では、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」としている。

さらに、第98条は、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と、規定している。

そうであるのに、警察(=安倍政権)は、この憲法の規定に反して、安保法案に反対する国会前「デモ」を、過剰に規制した。これは、憲法の規定に照らしてみても、到底許されるものではない。

「(歩行者などの)安全を確保する」という名目の下、あれほどの警察官を動員し警察車両を並べ、デモに参加している人々を狭い歩道に押し込めることは、明らかに「行きすぎ」た「過剰な警備」である、と断ぜざるをえない。

これは、警察が独自に判断したこととも、思えない。安倍首相の、そうでなければ、首相官邸の意向が強く働いた結果である、と考えられる。もし、そうであれば、安倍政権は、二重、三重の「憲法違反」をおこなったことになる。

東京都の条例では、「デモ」について、厳しい制限が規定されている、といわれる。そもそも、このような「条例」によって、国民の権利である「自由な意思の表明」を、制限すること自体に問題がある。


◆ 「独裁社会」のすることであり、「民主主義国家」がすることではない

そうであるにしても、今回の「警備の仕方」は、異常である。歩道に沿って、警察車両を延々と並べる。ところが、車道は「ガラすき」である。ほとんど通行車両がない。

そうであるなら、「片道通行にする」などの対策が取れたはずである。また、国会前「デモ」は、前もって届けられているのであるから、あらかじめ、国会前の交通を制限する、という措置も取れたはずである。

そうであるのに、8000人もの警察官を動員して、警備に当たらせるなど、言語道断である。国民の権利を守るべき立場にある警察官が、国民の前に立ちはだかって、国民が自由な意思の表明をすることを「邪魔をする」などという事は、前近代的社会のすることである。

「非民主主義国家」のすることである。「独裁国家」のすることである。今回の国会前「デモ」に対する警察の「過剰警備」は、日本がいまだに、「民主主義国家」として、未成熟であることを、証明した。


選挙で投票すれば、それで国民としての義務が、終了する訳ではない。国民は、いつでも、政府の動きを「ウの目、タカの目」を持って、厳重に監視をする必要がある。

また、いつでも、政治に対して、自由に意見を言う権利を持っている。それは、主権者としての「絶対的な権利」なのである。このことを保証することのできないような国を、「民主主義国家」と呼ぶことは、とうてい出来ない、ことである。

※ (第2回目を投稿しました。あと、3回ぐらいを予定しています。)

(2015年9月20日)