<web上「読書会」 丸山【2】
丸山真男『増補版 現代政治の思想と行動』、2回目です。
丸山は、現代の自由主義は、マスプロ機関を縦横に駆使する、とのべます。
いわゆる「文明の利器」というものが、宣伝の道具として現代の政治(1950年代、60年代)において、いかに重要なものとなっていたか、についてを解明しています。
もちろん、このことは、今日では、より強化されるようになってきていることは、今更言うまでもありません。
そして、ここには、デモの「効用」が説かれています。つまり、それは、「デモ」は、「(政治的権力者である)安倍首相を孤立した存在」へ追いやる最もよい手段になる、ということです。
◆ 「文明の利器」を利用した宣伝戦が現代の大きな特徴に(見出しは、投稿者)
≪数万人が集合し得るような大きな広場での人民の集会、あるいはデモンストレーションは、最近のマイランダであるということができる。
これは本来大衆的な民主主義の登場とともに起こってきたことは言うまでもないが、近代的な独裁者は、自己の支配の民主的な基礎づけを誇示するために、あるいは国外国内の政治的反対者に、自己の威力を示して圧倒するために、こうした新しい手段をマイランダとして盛んに利用するようになった。
ニュース映画によくあった場面として、ナチス・ドイツで青年や子供たちが隊を組んで行進しヒットラーに、一斉に挙手の礼をする。ああいう光景を見ていると、ヒットラーの権力が非常に根深く大衆の中に張っているかのように感じられる。
メリアムは「自分の政治的立場と反対の立場にあるデモ行進に遭うと、どんな気の強い者でも自分が非常に孤立した存在だという意識を強くする」といっている。だから、政治的権力を誇示するのにデモは最もよい手段である。
こうして、近代国家によって一胆分離された、外面と内面・公的なものと私的にもの・法的=政治的なものと文化的なものとが再び区別できなくなってくる。政治権力が、ラジオとかというような、非常に高度な近代的技術を駆使して、自分のイデオロギーを朝となく晩となく人民に注ぎ込む。
すると他方、現在支配的な政治力に対抗する陣営でも出来る限りあらゆるプロバガンダの手段を用いて自分のイデオロギーを撒布する。ここで宣伝戦が現代の大きな特徴になってくる。
(略)
今や個人の外部的物資的な生活だけでなく、内面的、精神的領域のすみずみまで政治が入り込んでくる。ラジオをかけると、ラジオでーつの政治的イデオロギーを吹き込まれる。新聞を見ると、新聞がやはりそういう政治的なイデオロギーによって書かれている。
政治は今やこのようにして全体主義国家だけの現象ではない。デモクラシー国家でも日々そうなっていく。ただいわゆる全体主義は、こういう傾向を公然とおし進めていくにすぎない。
かくて古典的意味における思想、信仰の自由は日に日に狭められつつあると言ってよい。現代の自由主義というものは新聞、ラジオ、映画等の宣伝機関を縦横に駆使することによって、その誕生期ーロックの時代とまったく相貌を変じているのである。≫
◆ シールズに「代表される」、「デモ」は「意味」がある
「マイランダ」(指導者に対する崇拝や憧憬)の具体例として、丸山は、国歌が行うところの儀式、祝祭日、国歌などをあげています。
中ほどに出てくる、「自分の政治的立場と反対の立場にあるデモ行進に遭うと、どんな気の強い者でも自分が非常に孤立した存在だという意識を強くする」という記述は、重要なことが指摘されています。
シールズに「代表される」ところの安保法案反対の「デモ」について、「無意味である」とか、「政権の決定に何の影響も与えることが出来ない」といったたぐいの批判があります。
それらの批判に対する有効な反論になっている、と思います。
ラジオについて、度々取り上げていますが、この頃には、まだ、テレビは一般家庭には、普及していませんでした。
なお、「ロックの時代」のロックとは、イギリスの政治学者の、ジョン・ロックのことです。
また、「ロックの時代」との違いを比較検討するには、政治を「抽象化する」手続きを必要とします。
そこで、「丸山真男が、誤解を受ける原因」が生じてくると、小室直樹博士は言っておられます。つまり、丸山が、自然科学的手法を使って「政治現象」を解明しようとしていることが理解されない。誤解を受ける。
丸山真男の言っていることは、「ひとつの仮説である」という事が理解されない。ここに、彼が誤解される原因がある、と述べられています。このことについては、丸山の著書をよく吟味した上で、「もっと、私の理解がすすんでから、改めて検討したいと思います。
(2015年9月29日)
丸山真男『増補版 現代政治の思想と行動』、2回目です。
丸山は、現代の自由主義は、マスプロ機関を縦横に駆使する、とのべます。
いわゆる「文明の利器」というものが、宣伝の道具として現代の政治(1950年代、60年代)において、いかに重要なものとなっていたか、についてを解明しています。
もちろん、このことは、今日では、より強化されるようになってきていることは、今更言うまでもありません。
そして、ここには、デモの「効用」が説かれています。つまり、それは、「デモ」は、「(政治的権力者である)安倍首相を孤立した存在」へ追いやる最もよい手段になる、ということです。
◆ 「文明の利器」を利用した宣伝戦が現代の大きな特徴に(見出しは、投稿者)
≪数万人が集合し得るような大きな広場での人民の集会、あるいはデモンストレーションは、最近のマイランダであるということができる。
これは本来大衆的な民主主義の登場とともに起こってきたことは言うまでもないが、近代的な独裁者は、自己の支配の民主的な基礎づけを誇示するために、あるいは国外国内の政治的反対者に、自己の威力を示して圧倒するために、こうした新しい手段をマイランダとして盛んに利用するようになった。
ニュース映画によくあった場面として、ナチス・ドイツで青年や子供たちが隊を組んで行進しヒットラーに、一斉に挙手の礼をする。ああいう光景を見ていると、ヒットラーの権力が非常に根深く大衆の中に張っているかのように感じられる。
メリアムは「自分の政治的立場と反対の立場にあるデモ行進に遭うと、どんな気の強い者でも自分が非常に孤立した存在だという意識を強くする」といっている。だから、政治的権力を誇示するのにデモは最もよい手段である。
こうして、近代国家によって一胆分離された、外面と内面・公的なものと私的にもの・法的=政治的なものと文化的なものとが再び区別できなくなってくる。政治権力が、ラジオとかというような、非常に高度な近代的技術を駆使して、自分のイデオロギーを朝となく晩となく人民に注ぎ込む。
すると他方、現在支配的な政治力に対抗する陣営でも出来る限りあらゆるプロバガンダの手段を用いて自分のイデオロギーを撒布する。ここで宣伝戦が現代の大きな特徴になってくる。
(略)
今や個人の外部的物資的な生活だけでなく、内面的、精神的領域のすみずみまで政治が入り込んでくる。ラジオをかけると、ラジオでーつの政治的イデオロギーを吹き込まれる。新聞を見ると、新聞がやはりそういう政治的なイデオロギーによって書かれている。
政治は今やこのようにして全体主義国家だけの現象ではない。デモクラシー国家でも日々そうなっていく。ただいわゆる全体主義は、こういう傾向を公然とおし進めていくにすぎない。
かくて古典的意味における思想、信仰の自由は日に日に狭められつつあると言ってよい。現代の自由主義というものは新聞、ラジオ、映画等の宣伝機関を縦横に駆使することによって、その誕生期ーロックの時代とまったく相貌を変じているのである。≫
◆ シールズに「代表される」、「デモ」は「意味」がある
「マイランダ」(指導者に対する崇拝や憧憬)の具体例として、丸山は、国歌が行うところの儀式、祝祭日、国歌などをあげています。
中ほどに出てくる、「自分の政治的立場と反対の立場にあるデモ行進に遭うと、どんな気の強い者でも自分が非常に孤立した存在だという意識を強くする」という記述は、重要なことが指摘されています。
シールズに「代表される」ところの安保法案反対の「デモ」について、「無意味である」とか、「政権の決定に何の影響も与えることが出来ない」といったたぐいの批判があります。
それらの批判に対する有効な反論になっている、と思います。
ラジオについて、度々取り上げていますが、この頃には、まだ、テレビは一般家庭には、普及していませんでした。
なお、「ロックの時代」のロックとは、イギリスの政治学者の、ジョン・ロックのことです。
また、「ロックの時代」との違いを比較検討するには、政治を「抽象化する」手続きを必要とします。
そこで、「丸山真男が、誤解を受ける原因」が生じてくると、小室直樹博士は言っておられます。つまり、丸山が、自然科学的手法を使って「政治現象」を解明しようとしていることが理解されない。誤解を受ける。
丸山真男の言っていることは、「ひとつの仮説である」という事が理解されない。ここに、彼が誤解される原因がある、と述べられています。このことについては、丸山の著書をよく吟味した上で、「もっと、私の理解がすすんでから、改めて検討したいと思います。
(2015年9月29日)
0 件のコメント:
コメントを投稿