2015年9月28日月曜日

「勝つこと」だけを優先、「教育」を忘れるから問題が起きる 「部活がそれほど大切か【下】

「学校の部活」は、「勝つこと」だけが優先され、「教育の目的」を忘れるから問題が起きる。
視点が少し違うのだが、参考になる記事を見つけたので、その記事を引用しながら、「学校の部活」について考えてみたい。
前回、女子高生についての記事を投稿した。この生徒は、「”部活”のことで悩んでいた」、と報道は伝えた。


「学校の部活」ではないが、「放課後のクラブ活動」をしている子供らの声で悩まされているものとして、「部活」について日頃から関心がある。それで、この記事では、「学校の部活」を含めて、子供の「スポーツ」活動ということについて、思うところを述べてみたい。


◆ 長時間の練習、「休むこと」のない練習が、弊害を生む

今回、参考にするのは、≪部活動に“顧問”は必要か? ある教師の悲痛な叫びから考える、教師も生徒も疲弊する顧問強制問題≫というタイトルの記事である。

記事は、次の三点に焦点があてられている。その中において、「教師も生徒も疲弊する顧問強制」という問題について、考える記事になっている。

「問題の焦点」
① 顧問を強制させられる状態に疑問を持つある教師
② サッカーに多数いる資格保有者が指導しては?
③ 毎日厳しい練習することは正しいのか?

私がこれから検討しようと思っている内容は、「③」と大いに関係がある。
まず、ここから始めたい。

ブログの筆者(以下、A氏という。)は、次のように言う。
「部活動における練習のあり方にも問題があるように思える。毎日、毎日、休みなく練習を続けることが果たして正しいことなのか。たしかに忍耐力は鍛えられるかもしれないが、効率がいいとは言えない。サッカーにおいては、練習のし過ぎによる踵骨骨端症や第五腰椎分離症といった怪我を発症する子どもが増えている。」
確かに、「朝練(=朝、授業の開始前の練習)」をし、放課後になると、3時間、4時間と練習を続ける。土曜日も、日曜日も練習で、しかも、3時間、4時間では終わらない。ひどいところでは、1日中続けるところもあるのではないか。

私のすぐ隣の小学校では、土曜日、日曜日は、小学生が一日中サッカーや、野球の練習をしている。(ただし、これは学校が行っているものではない。)

A氏の結論は、「この問題は解決するのは時間がかかり、難しさもあるが、複雑ではない。一体何が目的なのかを今一度見つめ直すことだ」という。

そして、結論として、「今までもそうしていた」、「みんなが我慢している」、「毎日部活をしなければ」、”こんな思考停止はすぐにやめてもらいたい。”と、指摘している。

私もこの意見に賛成である。


◆ 回数、1日の練習時間をもっと減らすべき

私は、それに加えて、1日の練習時間そのものをもっと減らすべきである、と考える。特に小学生や中学生の内は、まだ、体が完成していないし、体力もそうあるわけではない。

朝から夕方遅くまで、「ぶっとうし」で、練習をすることには、反対である。だいいち、そんな長時間にわたって集中することなど、大人でもできない。当然、「手を抜く」ことになる。

そうであれば、効果は、半減する。練習そのものにも、身が入らず、惰性で「ダラダラと練習する」だけになる。

A氏は、スペイン(=基本的に週3日)、ドイツ(=週2日しか練習をしない例)など、海外での練習量について紹介し、顧問の先生も楽になるし、「生徒も時間的な余裕が増えることで、勉学など部活動以外も充実することができる」と主張している。

まったく、同感だ。
勉強がすべてとは思わないし、クラブの時間を減らしたからと言って、その空いた時間を、子供らが有効に使うかどうかはわからない。それでも、1週間あたりの回数や、1回あたりの時間数を減らすべきである。

勉強をするだけでなく、読書をしたりすることも、大切である。これらのことは、疲れ切った体では、出来ない。すぐに眠たくなってきて、ほんの少しの、形ばかりの勉強や読書になってしまうことだろう。

また、自由に「ノビノビ」と、友達などと遊ぶ時間も必要である。環境が許せば、自然の中で活動することも、いい経験になる。


◆ 忘れられがちなこと。「部活と言えども、学校教育の一環」

何よりも、重要視されるべきは、「部活」と言えども、学校教育の一環である、という事だ。教育という事から離れては、存在しえない
、という事実である。

言うまでなく、教育は人格の完成を目指して行われるべき性格のものだ。そうであるから、当然、「部活」も、この観点を抜きにしては、語ることが出来ない。「部活」というものを評価するときは、教育の目的にかなったものになっているのか、ということが問題になる。

だが、現状においては、ともすると、「勝ち負け」ばかりが優先され、教育の目的としての観点が忘れ去られているように思える。しかも、その「勝ち負け」を、学校全体の「名誉」と関連づける至っては、「本末転倒」である、と言わざるをえない。

それを象徴しているのが、学校の校門の壁などで見かける「横断幕」である。たとえば、『おめでとう 00部、全国大会、出場」といったようなものだ。もう、ここまでくると、部活の目的は、とっくに忘れ去られている。

そこでは、「学校のためにガンバル」という目的が、最優先される。そうなると、今度は、この目的が「独り歩き」を始める。一人ひとりの「目的」などは、入り込む余地がなくなる。どうでもよい、ということになる。

その結果が、「先輩部員によるシゴキ」となって、あらわれる。あるいは、「イジメ」がおこる。これは、極端な場合かも知れない。だが、現実には、「日常茶飯事」になっているのではないか。

それが、表面化しないのは、「軽いもの」で済んでいるか、「昨日の記事で取り上げた事態」になるまで放置されるか。そのどちらかになっている、という気がする。


◆ 自由で、自主的な活動であるはずの「部活(=スポーツ)」の強制

本来は、自由で自主的な活動であるはずの「部活(=スポーツ)」を、自分以外の「他者から強制」されて「それを行う」というところに、問題の出発点があるように思う。

自分の経験を披露するのは、―何分、「半世紀」も前のことであるし―「おもはゆい」ことではあるが、こういうこともあるのだという例として、紹介しておく。

私は、「部活」を他者から強制されたことが、一度もない。「クラブ」に入る時も、やめるときも、先輩からはもちろん、顧問からも何も言われなかった。高校では、まったく、「自主的」な活動として、おこなった。

高校1年生の時は、―この1年間についてだけは、練習方法は、自由とはいかなかった―そういう訳ではなかったが、2年生以降は、まったく自由に行ってきた。

これは、部員が少ないという事情もあった。陸上部という事で、一人でも練習が出来る、ということもあった。(種目によっては、よく起こる。)何よりも、このスポーツは、自分だけが頼りのスポーツである。

試合においても、―「リレー競技」でない限りは―、競技の途中で止めるのも、自分の選択だ。また、場合のによっては、「続行したくても出来ない」という状態になる時もある。これは、マラソンなどで起こる事が多いので、「よく知られたこと」であると思うが・・・・。

自分の人格の完成を目指しておこなわれる、―あるいは、行われるべき―、「部活」が、「他者の強制」によって、「非自主的な活動」としておこなわれるときは、多くの弊害をともなうことになる。

時には、児童や生徒の尊厳を傷つけるようなことが、「平気」で、「大っぴら」におこなわれることがある。そして、それを「強くなるため」、「勝つため」という理由から、周囲が大目に見る。

ここに、「悲劇」が起きる、重大で軽視できない、「原因」が潜んでいる、と思うのである。

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 この記事では、運動クラブとしての「部活」を取りあげています。文化的な「部活」は、少し事情が違うと思うのですが、そこまで検討することはしていません。

(2015年9月28日)