2015年6月23日火曜日

立憲主義の原理・原則 日本人に理解し、守り、育てる事が出来るか

今、日本の立憲主義が、危機に瀕している。
それは、立憲主義の原理・原則の危機といってもよい。
このことは、また、憲法が、「死につつある」状態にある、ともいえる。そして、その事の根本には、日本人が、立憲主義を、理解し、守り、育てる事が出来るか、という問題がある。

しかも、それに、政権自らが、手を貸そうとしている。
はたして、日本の憲法に、未来はあるのか。

このことについて、私なりに理解できた範囲内において、述べてみたい。


1) 立憲主義とは、何か


まずはじめに、立憲主義とは、何か、という事のついて確認をしておきたい。
このことが理解できていないのでは、話が始まらないからである。

立憲主義とは、憲法によって政治を行うことである。
憲法をもって、根本規範とする政治のことである。

憲法は、主権者(必ずしも、国民が主権者とは限らない)と人民との間の統治契約である。
そして、この統治契約が根本規範であるためには、それは、絶対でなければならない。

この契約が絶対である、という考えは、啓典宗教に由来する。
啓典宗教における契約は、神と人間との契約である。(ユダヤ教、イスラム教、キリスト教)

この契約は、絶対である。
この神との(絶対)契約が、宗教の根本にある。

啓典宗教においては、神との契約が戒律であり、社会規範であり、法律でもある。
つまり、戒律=社会規範=法律である。
それは、イスラム教を見れば良く解る。

そして、啓典宗教においては、法律もまた、神の創造による。
神の意志により、創られる。

これを、「神前法後」(神が先にあって、法律が後に来る)と、いう。
一方的な神の意志により、契約が結ばれる。

このことがあって、法律が作られる。

これは、仏教や、儒教にはない考えである。
この契約は絶対である、という考え方は、啓典宗教にのみ存在する。

だから、絶対契約としての統治契約は、啓典宗教の下(もと)でしか、成立しえない。
では、この、絶対契約という考え方があれば、憲法は、成立するのか。

そうではない。
絶対契約は、神との契約であり、いわばそれは、タテの契約である。

憲法が成立するためには、タテの関係が、ヨコの関係に転換されなければならない。
それには、資本主義の発生を待たなければならない。


2) 資本主義が、ヨコの契約を生み出した

ところで、「神と人間との契約」は、人間は神の下に平等である、という思想(考え)を生み出した。
人間は、それぞれに顔や形、肌の色などや、身分に違いがあっても、皆平等な権利を持っている。

こういう思想が、芽生えた。
このことの理解が、決定的に、重要である。

ところで、この資本主義の発生は、西洋のキリスト教諸国でおこった。
つまり、その発生の基礎には、啓典宗教がある。

それは、先に紹介したように、「神と人間との契約」が、人間は神の下に平等である、という思想をも、編み出したからである。

キリスト教が発展するに従って、タテの契約が、ヨコの契約へと転換した。


資本主義における契約は、対等な、自由な当事者間の(私的)合意により結ばれる。
それは、人と人との契約、つまりは、ヨコの契約である。
そして、また、これも絶対である。

つまり、これは統治契約である、憲法と同じである。
これで、「車の両輪」が、そろった。

こういう次第で、立憲政治には、その基軸に啓典宗教がなければ、機能しない。

このことは、現在の世界の状況をみれば、よくわかる。
立派な憲法を持つ国は、日本だけではない。

それどころか、むしろ、日本より進んだ憲法を持つ国もある。
自国に、他国の軍隊が駐留することを禁ずる、憲法を持つ国家もある。

なにも、平和憲法をもっているのは、日本に限ったことではない。
しかし、それらの国が、立憲主義を実現できているかというと、あやしい。

形だけは、整っていても、憲法が生きていない、ということである。


さて、神が絶対である、とはいかなることをいうのか。
それは、人間の運命までも、決めることができる存在である、ということだ。

キリストは言う。
「わたしは、あなたをまだ母の胎(はら)につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」(エレミヤ書 第1章

天地を創造した神であるから、人間(神のしもべ)を作ることなど、造作もないこと。
およそ、神に「不可能はない」のである。

しかも、この神は、「死んでいて、なおかつ、生きている」神だ。

ここまでで、契約の絶対性と、平等性について、検討できた、と思う。
先を急ごう。


3) 日本においては、どうであったか

では、日本においては、どうなるのか。
歴史を、江戸時代の末期にまで、戻してみる。

日本人は、無宗教である、といわれる。
別の言い方をすれば、多宗教といってもよい。

何でも、取り入れて、自分なりに、改造してしまう。
仏教も、儒教もそうであった。

日本に入ってくると、徐々に「戒律」は、取り払われた。
それは、「なまぐさ坊主」という言葉に象徴される。

お酒を飲み、妻帯をし、家族や、財産をもつ。
「出家」などという事とは、縁遠い生活をする。


これは、どういうことか。
立憲政治が機能するには、その基軸に啓典宗教が必要であった。

また、タテの契約をヨコの契約へと転換するには、資本主義が成立していなければならなかった。

明治の初めの日本には、その両方がかけていた。
啓典宗教はなかったし、資本主義も、成立してはいなかった。

人間は、本来的に、平等である、という思想がなかった。
そこで、「天皇」を、啓典宗教の代わりに仕立てた。

日清、日露の戦争の勝利は、その天皇を「現人神」(生きている神)に変えた。
もちろん、資本主義も、生みだされ、発展した。

ようやく、これで、日本の「車の両輪」が、そろった。

曲りなりにも、近代国家の体裁を、整えることができた。
だが、「これから」というところで、敗戦となった。

天皇は、「人間宣言」をした。
そのことで、もはや「現人神」ではなくなった。
神様ではなく、「ただの天皇」になった。

経済は、壊滅的な打撃を受けたが、日本人の努力で、建て直すことができた。
だが、天皇が「神様でなくなった」ことで、車の片方が、欠けた。

これまで述べてきたことでお分かりのことと思うが、戦争で負けたことで、立憲主義の根本である、大きな基軸の一つがなくなった、のである。

このことの持つ意味は、限りなく大きい。


4) 原理原則を持たない国民に、立憲主義を理解できるのか

そこで、問題は、こうである。
立憲主義の基軸を欠いた、今の日本人に、憲法のもつ意味が理解できるのか。それを守り、育てていく事が出来るのか。

守り、育てるという前に、そもそも、憲法が「絶対契約」である、という事を理解できているのか。
「押し付け憲法」であるという批判はあるにせよ、一見すると、今の日本には、憲法は、定着しているように思える。

しかし、肝心の基軸のひとつを、欠いているのである。
そういう中にあって、国民の多くが、果たして、憲法の持つ重要さを理解し、憲法の精神を守ろうとしているのであろうか。

あるいは、それを理解することが出来たとしても、守り、育てていくることが出来るのであろうか。


「啓典宗教を持たない」という事は、原理原則を持たない、ということと同じだ。
また、「契約」という事について、基本的な認識が、欠けている、ということでもある。
さらには、人は互いに、自由であり、平等である、という認識も、どこまで理解できているのか、あやしい。

そのことは、所有権(私的所有権)についての理解が不足している、ということにもなる。
そのような国民に、はたして、立憲主義を理解できるのか。

現在の日本には、「けじめ」が、なくなった。
こういっても、「当たらずといえども、遠からず」であろう。

また、依然として、「空気が支配する」社会である、ともいえるだろう。
何かというと、「空気を読め」という言葉で、解決しようとされる。

これらのことは、やはり啓典宗教を持たない、という事と関係がある。
少なくとも、「もった経験がない」、ということは、間違いがない。

そして、さらに、もっと、深刻なことがある。
それは、現在、それに代わるものを持っていない、ということである。(戦争に負け、天皇が「人間宣言」をしたことで、基軸の一つが消えた)

そうだとすると、この先、憲法が、これまで通りの機能するという保証は、どこにもない。(もちろん、これまでにも、機能してこなかった、という見方もできるが)

これは、「解釈がどうのこうの」という問題ではない。
憲法の根幹に関わることである。

今、安倍政権が、強引に行おうとしていることも、根本には、ここに原因がある。
立憲主義の原理・原則の「無理解」ということもさることながら、そもそも、
立憲主義を行える資質そのものが、欠けている。

そういうことになるのではないか。
もし、そうだとすると、これは、安倍政権だけの問題ではない、ということにもなる。

ここに、今日の日本の、立憲主義の根本的な課題がある。
そのように思うのである。

(2015年6月23日)