2015年6月20日土曜日

憲法解釈の最高権威は、最高裁か 最終判断をするのは、国民である

憲法解釈の最高権威は、最高裁であると、安倍政権や、与党が、叫んでいる。

だが、最終判断をする権限は、国民にある。
憲法は、国民からの、最高裁などへの、命令であるからだ。

このことを忘れては、いないか。





1) 憲法解釈の最高権威は、最高裁にあるか

自民党の稲田議員が、「憲法解釈の最高権威は最高裁。憲法学者でも内閣法制局でもない。最高裁のみが憲法解釈の最終的な判断ができると憲法に書いている。」、と述べたことがある。


そのことについては、このブログでも批判しておいた。
だが、肝心なことについての言及が、できていなかった。

あらためて、その点について、述べてみたい。
本当に、憲法解釈の最高権威は、「最高裁」であって、憲法学者でも内閣法制局でもないのか。
このことである。

結論から先に言えば、「間違いである」し、「間違いでもない」。
「間違いである」という理由は、最終的な判断をする権限は、国民にあるからだ。

「間違いでもない」という訳は、「違憲判断をする権限」を、憲法(国民の意思)が最高裁に認めているからである。

ところで、その最高裁であるが、その権限を行使したことがあるのだろうか。
次にそれを検討する。


2) 砂川判決が示していること

もちろん、最高裁が、違憲判断をした例がなわけではない。
ここで問題にしているのは、高度な政治的な問題が絡んだ事件のことをである。

そこで、問題になっている、砂川判決を見てみる。
砂川判決においては、以下のように書かれている。
れ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所 の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に 違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつ て、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権 を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委 ねらるべきものであると解するを相当とする。
 そして、このことは、本件安全保障 条約またはこれに基く政府の行為の違憲なりや否やが、本件のように前提問題とな つている場合であると否とにかかわらないのである。
「田中判決」 (いわゆる「砂川判決」のこと。)

 ここにおいて、明白に「終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委 ねらるべきものである」と書かれている。

それは、至極当然の見解である。

憲法の持つ、精神からいっても、そうなる。

憲法は、主権が国民にあることを認めているからだ。

そうであるから、稲田氏の見解は、誤りではないが、肝心な点を、忘れている。

そう
でないとすれば、意図的に「避けて」いる。
弁護士の資格を持つ、稲田氏のことであるから、主権が国民にあることぐらいは、先刻、御存じのはず。

砂川判決を、詳らかに読んでいない、ということもなかろう。
ここから、得られる結論は、意図的に「はぐらかしている」、という事にならざるを得ない。


3)すべての審議をNHKが中継したうえで、徹底審議をする

さて、ここからは、今、審議中の安保法案である。

数の上から言えば、与党が、圧倒している。

力で押し切ろうとすれば、それも可能だろう。

安倍首相は、「維新の手」まで借りて、それを強行するような姿勢を見せている。

形勢が、「不利」という判断をしているせいか。

マスコミは、それを、「強行採決をした」と見られたくない。

そうなると、安倍内閣の支持率が、下がる。

悪くすると、総辞職、総選挙、という事態になる。

それは、なんとしても避けたい。

そのために、野党である、維新を抱き込もうとしている。

このように、書いている。


私は、この法案について、トコトン、議論し、討論をしてもらいたい、と思っている。

ただし、これには、前提条件がある。

それは、すべての審議をNHKが中継すること、である。

さらに、昼間見れない国民のために、夜も、再放送をする。

このことができれば、賛成だ。

そして、日米安保条約が、何故、これからも必要なのか。

もう、そろそろ、「廃棄通告」をしても良い時に、きているのではないか。

米軍基地が、何故、日本にあるのか。

日米安保条約があり、米軍基地が日本にあるのに、何故、米軍を自衛隊が守る必要があるのか。

国連憲章にある<敵国条項>について、どう思うのか。

そのような国連に加盟し、「平和維持活動」を、何故するのか。

国際貢献の道は、国連の「平和維持活動」の参加するより他には、ないのか。
日本が世界から求めれれているのは、もっと、ちがう貢献の仕方ではないのか。

なぜ、改憲を先にせずに、「政府解釈」で押し切ろうとするのか。
そんなにも、急ぐ理由は、どこにあるのか。


4)1年ぐらいの審議期間をかけて、討議すべきことだ


これらのことにつて、徹底して、審議をしてもらいたい。
というか、要求する。

長い審議期間を経過すれば、さまざまなことが見えてくるだろう。
      
そうすることで、安倍内閣の「ボロ」が出る。
もちろん、野党の追及の「弱さ」も、でるであろう。

何よりも、国民を鍛えることができる。

このことが重要だ。


政府・与党が、長い時間をかけたというなら、国民には、もっと、長い時間が、必要だ。

安倍首相がおこなった、テレビ会見など、「おためごかし」にすぎない。

1年ぐらい時間をかければ、首相の時間もとることができる。

他人任せにせず、安倍首相自身が、自分の言葉で、国民に向かって、説明をすべきだ。

もちろん、専門的なことは、大臣や官僚が答弁してもよい。
だが、質問にたいし、まったく何も答えない、という事では、国民は、納得しない。

首相であり、「私が、最高責任者である」という以上、「私は、こう考える」という事を、責任をもって、いうべきだ。

その際、野党も、「揚げ足取り」のようなことをすることがあっては、ならない。

あくまで、正面突破で、いくべきだ。

この法案を誰よりも、何よりも、「通したい」と思っているのは、安倍首相である、と思う。

このことは、まちがいがない、だろう。

そうであるならば、やはり、安倍首相自らが、答弁に立つべきだ。


5) 最終的な判断は、「国民審査」でおこなう


そのうえで、最終的な判断は、「国民審査」にかける。

当然、それは、与党が提案すべきことだ。

このことを、まず、国民に向かって、約束をする。

国会の討論にあたっては、「真剣」に、野党の質問に答える。

「はぐら」かしたり、議論を「すり替え」たりしない。

とうてい、考えられもしないことを持ち出して、議論しない。

これらのことを実行するなら、多くの国民も、納得するであろう。

だが、これには、ひとつの問題点がある。

このようなことを安倍首相や、与党が、約束をするとは、到底思えない。

このことである。

その意味においては、「廃案」にする。

このこと以外にはない、のかもしれない。

だが、折角の機会である。

何とか、国民にとって、「良い方向」に持っていくことは出来ないものか。

(2015年6月20日)

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